朝食の時、ふと目を止めたのが1996年2月28日の日本経済新聞の裏面。食事の時くらい読むのを止めてというカミさんを無視したのも、裏面にチェッカーキャブの写真を見つけたのでは仕方がない。
“惚れた!NY名物タクシー…”という表題は、会社員佐藤隆史さんの投稿。仕事で縁ができたアメリカでチェッカーキャブの虜になった様子がとても面白かった。
第二次世界大戦後に流行ったアメリカ映画にはまった人なら、NYのタクシー=チェッカーキャブは目に焼き付いているはず、特に映画が天然色になってからは目立つ黄色の姿が印象的だった。
が、やたら映画に出てきたNY名物黄色の車が90年代に入ると目に付かないので調べたら、たった5台になってしまっていたと云う。私もチェッカーキャブ、通称イエローキャブには興味があり、それが減っていくのに気がつき、写真を撮っておこうと思ったが、80年代に入ってからでは既に遅かった。
調べてみると、タモリの人気番組“笑っていいとも”が始まった82年に、ガソリンの大食いが嫌われて、生産中止のよう。諺に“灯台もと暗し”とはよく云ったもので、ふと気がついたらアメリカで出会えなかったのに、近所のマンション駐車場に駐まっていた。
日本ナンバーを付けた車はマニアの愛蔵品のようで、素晴らしいコンディションで、往年流行のホワイトサイドウオールタイヤまで履いている。
オーナーとは面識なしだから、残念ながら年式不明。が、デュアルヘッドライトになったのは1956年。ハートブレークホテルのヒットでプレスリーが脚光を浴びスター街道に躍り出た年だ。日本では自動車賠償責任保険が発効、その日のうちに老婆が葛飾でひき逃げされて、対象第一号になった。
チェッカーモータースがミシガンに創業したのは、念願のアイルランドが自治権を得てアイルランド自由国が誕生した1922年だった。報道される激しいIRAの活動、そもそもは16世紀からの英国との戦争以来で1800年に英国に併合されてからは「英国の小作人」と云われながら続く搾取からの解放戦なのだそうだ。うわべしか知らない我々には理解できない戦いのようだ。
創業時1920年代のチェッカーキャブは、時代を反映した箱形ボディーがクラシカルだが、運転席にガラス窓が無く、冬はさぞかし寒かったろうと思われる。愛称がイエローキャブのように、黄色のボディーに白黒のチェッカーフラッグのストライプがトレードマークなのは、既に御承知だと思う。
イエローキャブが箱形から流線型に大変身するのは、立川飛行~ロンドン間1万5000kmを94時間17分56秒(平均時速300km)の長距離記録を、朝日新聞神風号/三菱製が樹立した1937年のこと。
興味は戦前のチェッカー自動車には自社製エンジンがなく、現在航空機エンジンしか造っていないライカミング社から、八気筒148馬力エンジンの供給を受けていたこと。「自由の女神は健在なのにイエローキャブだけがなくなる何と寂しいことだ」と、知り合いのアメリカ人が嘆いていた。