【車屋四六】BMWマル2シリーズ

コラム・特集 車屋四六

いまでこそ日本市場ではステイタスなBMWも、昭和30年代まではマイナーな存在。いやマイナーと云うよりは、知名度がないと云う方がよかった。

第二次世界大戦(WWⅡ)以前、素晴らしいリムジンやスポーツカーを造ったBMWらしく戦後のカンバックは、V型8気筒搭載の高級車、そして第二弾が507と呼ぶ高級スポーツカーだった。
が、車の高級感とは裏腹に売れ行きの方さっぱりだった。

一方、メルセデスベンツの戦後は廉価版からと対照的で、こちらは成功、戦後再出発の基礎となる。
BMWの豪華版での再出発は経営陣舵取りの失敗。そこで、反省、再出発で登場のピンチヒッターは、なんと軽自動車だった。

ジリ貧状態のイソイセッタ(伊)を工場丸ごと買い取り、不評原因のエンジンをBMW製に換えて登場したのがBMWイセッタ(写真上:BMWイセッタ。BMW250ccが好評で年末には300に。57年600四座席を追加・100km/h巡航可能になりメッサーシュミットやVWとアウトバーンで張り合えるようになる)。
やがて二座席のイセッタは四座席を追加、それをベースにBMW700が誕生して徐々に元気を取り戻していく。

そして新登場BMW1500のヒットで、傾いた会社は本格的に復興軌道に乗る。マリリンモンローが変死、美空ひばりと小林旭が結婚した62年のことである。

1500は、ヨーロッパでも認知され人気を得たが、66年にベルリンで会ったジャーナリストが「金のない奴はVW・金がないのに見栄を張る奴が1500に乗る」云っていた。
いずれにしても、日本での知名度はゼロに等しかった。

戦後派日本の一部マニアが、BMWを気にするようになった切っ掛けが02シリーズだった。
ヨーロッパで人気が出始めた1500は、1600→1800→2000と発展、そして次の一手が前記各シリーズの数字末尾二桁に02を付けた、日本名通称マルニの登場である。

02シリーズは2ドアだが4ドアの双生児ではなく、開発目標は小型軽量安価だったが、上級エンジンをそのまま移植ということで、2002Tiなどは高性能なスポーツカーもどきとなった。
BMWのスポーティーイメージの出発である。
66年に02シリーズ誕生した年、中国では文化革命。日本では航空機事故連発の昭和41年。先ず2月4日全日空機羽田沖墜落で133名死亡。3月4日カナダ航空羽田着陸失敗、4日羽田発香港行き英国航空機が富士山乱気流で空中分解126名死亡。

BMW700。BMWイセッタ600のコンポ流で59年に登場。美しい姿はミケロッティ・700ccで最高速度125km/h。66年誕生の02シリーズと交代する

さて、前述したように、BMWのコンセプトは、4ドアを二枚にすれば2ドアモデル、ではなかった。その思想は現在も引き継がれているが、小型軽量ボディー+満足できるエンジンということ。
1502~2002シリーズは、4ドアのトレッドをそのままに、ホイールベースを5ミリ短縮、全長を20ミリ短縮した。

で、02シリーズの陣容は、1502/75馬力、1602/80馬力、1602Ti/105馬力、1802/90馬力、2002/100馬力、2002Ti/120馬力、2002/Tii130馬力、2002ターボ/170馬力。

このターボの登場は、九段のグランドパレスホテルから金大中大統領候補がKCIAの手で誘拐された73年。が、ターボは、一部の識者から顰蹙(ひんしゅく)を買うことになる。

登場の時期が悪かった。時あたかもアラブ系産油国が原油を武器に先進国に圧力を掛けて始まった石油ショックの最中だったからだ。

最高速度が211km/h、ゼロ100㎞加速が8秒台となれば優れたスポーツカーだが、それが乗用車の姿をしているのだから、顰蹙(ひんしゅく)を買うのも当然である。

さて、知名度ゼロに等しかったBMWが、日本で認知される切っ掛けは5シリーズの登場。次の3シリーズ登場で決定的となる。
先ず羽振りの良い銀座のおネエさん達が乗り始めて、人気が徐々に高まり、最後は爆発的な人気者に。
そして、数が増えて目立つようになって生まれた愛称が「六本木カローラ」だった。

こんにちスポーティーなプレミアムセダンとしてBMWの印象は確立しているが、その出発点が02シリーズであることには疑う余地はない。

日本では通称マルニ・61年登場の四ドアセダンから派生66年登場のスポーティーな二ドア2002シリーズ