「左の頬を叩かれたら右の頬をxx」は○○教の偉い坊さんの教えだが、「やられたら・やり返せ」が人類本来のモットーだと思う。が「やられる前にやれ」という積極派も居る。
で、人が二人寄れば優劣を付けたがる。教養がない奴はあからさまに口に出し、教養が邪魔する奴は「俺の方が・・・」は口には出さねど心の中で。女と女が擦れ違えば「私の方が綺麗でしょ」とか「アンタ・ペチャじゃんか」と内心思っているのだろう。
こんな単細胞人類が、エンジンという馬みたいな強い心臓を持てば、黙っているはずがない。で、競争の始まりを紹介してきた。が、今回はもう少し具体的に掘り下げてみよう。
グランプリと呼べる格式が高いレースの世界初は、1906年6月。フランスのルマンに近い一周102.4キロの公道を閉鎖したトライアングルコースを、26日と27日、二日に分けて走った。
さて、史上初が1894年は既にご存じのはず。プチジュルナル社主催、パリ→ルーアン迄の126km。これにはバイクも参加している。このレースが有意義だったことは、後にフランス自動車クラブへと発展する委員会が組織されたことである。
第二回もご承知の通り、パリ、ボルドー往復1170km。ゴールは、またもやパナールとプジョー。が、またもや失格。レース規則の3人乗り以上、という項目で、2台共に二座席型だったのだ。で、両車に遅れること11時間という、プジョーが優勝と決まった。
ルマン24時間を、一人で走りきった奴が居ると聞いて感心したことがあるが、第二回パリ→ボルドーでトップゴールのルバッソールは、昼夜一人不眠不休で走ること実に48時間48分。計算すると平均時速24km/h。ちなみに、最終車のゴールは二日後で、蒸気自動車ボレーだった。
レースをやればやるほど性能が向上するのは、今も昔も変わらぬこと。1896年のパリ、マルセイユ間往復1700kmでは、いよいよ車に耐久力が要求されるようになる。そして馬力上昇でスピードも上がり事故続出。当時、最強は、パナール車のルバッソール伯爵。常勝街道を走り続けていたが、このレースで犬を撥ねたはずみで転倒、天国にゴールした。
他にも、坂の上から転げ落ちたり、路傍の立木にぶつかったり、と車が速くなったせいで、レース毎に滅茶苦茶な様相を呈するようになってきた。このレースでの優勝は、パナール四気筒38馬力で、平均速度は35km/hだった。
さて飛行船や飛行機のように、自動車も速くなると風圧と空気抵抗が問題だと自動車メーカーもドライバーも気が付く。で、1897年頃になると、レース用のボディーがちらほらと。
イエリネックも惚れたが、1899年の水雷艇と呼ばれたボレーは、空冷水平対向四気筒ツインキャブをリアに置き、後輪駆動で時速90km/hを出すという、高性能ぶりを誇った。
とにかく出力向上は日進月歩、ボディーの流線型が進化したのと相まって、内燃機関の自動車は速くなるが、電気自動車も負けていなかった。1899年にベルギーのイエナッチは、アルミボディーの電気自動車を自作して、ゼロ1km加速で105km/hの大記録を樹立(写真トップ:ベルギーのイエナッチが製作した水雷艇型電気自動車:アルミボディーで流線型、空力配慮の記録樹立用電気自動車。自動車で世界初時速100km/h突破した車)。後日イエナッチはベンツのトップレーサーとなる。
メルセデスのレース殴り込みは1901年だが、それまでの常勝はパナールvsプジョー。パナールはダイムラーエンジンの特許で始まり、その頃には出力が30馬力ほどに進化していたが、独自開発の50馬力エンジンも既に持っていた。
1890年代、ライバルのプジョーは鋼材会社で、1850年代に女のスカートを膨らませる鯨のヒゲを、ピアノ線に変えて大儲けした財閥で、1880年代には自転車の大メーカーでもあった。
得意の自転車技術で、エンジン付き三輪車、四輪車へと発展した会社だから、パナールvsプジョーの張り合いは、木工屋と鋼材屋とのチャンバラだったということになる。
20世紀後半、自動車大国となる米国はというと、1850年頃に自動車を作った記録があるが、これは蒸気自動車。米国初は、1991年、オハイオのランバート三輪車、ペンシルバニアのネーディック単気筒8馬力四輪車あたりということになる。
スピード競争には、壁破りというのがある。で、時速100km/hの壁をベルギーのイエナッチが破ると、当然次は100MPH(マイル)の壁(160km/h)。で、世界初自動車の100MPH突破は、ブリリエのリゴリーで、四気筒1500㏄車、1904年のことだった。
一方、アメリカで100MPHの壁にチャレンジしたのがスチーマー=蒸気自動車だった。スチーマーといえば、1930年代なっても活躍したのだから本場はアメリカである。
が、本場はアメリカでも、スチーマーを実用域に育て上げたのはフランス人なのだ。先ずセルポレがチューブ型ボイラーを開発して、数分でコールドスタートが可能に。次に、燃料と水のコントロールを足で出来るようにして、今の自動車と同じような操作で走ることが出来るようになった。
蒸気機関車を知っていれば判ることだが、蒸気圧で往復するシリンダーの力を、コンロッドとクランクで回転運動に変えるのだが、この仕掛けはジェイムス・ワットの大発明。
このセルポレ蒸気車は速いことで注目され、惚れ込んだプジョーがセルポレ方式の三輪スチーマー造り、ベンツもセルポレ方式が登場したことでも、その優秀さが判ろうというもの。が、セルポレの早逝で、フランスのスチーマー時代は短命に終わってしまった。