日本の道路でもかなり見掛けたから、ヒーレイを知っている人は多かろう。
WWⅡ以前からバックヤードビルダー(町工場)だった、ドナルド・ヒーレイが、息子のジョフレイと、45年にWWⅡが終わるとスポーツカー造りを再開した。
戦後最初の作品にはライレイ2.4?エンジンを搭載。その後各社のエンジンを搭載しながら、A・B・C・D・Eと発展を続けて、アルビスのエンジン搭載のF型で、このシリーズを終了する。
このシリーズ中で特に好評だったのは、50年登場のナッシュ用6気筒3.8?搭載のナッシュヒーレイだが、翌51年に前記F型でシリーズは一段落する。
50年、日本では大阪千日前に“アルバイトサロン”なる新商売が開店、それが全国に広がった通称“アルサロ”の元祖だった。
また“チャタレイ夫人の恋人”なる翻訳本が、猥褻の認定で発禁、送検された年でもある。
52年、チャタレイ夫人の恋人裁判の判決は、訳者伊藤整無罪、出版社小山書店に罰金25万円だった。
そんな52年ヒーレイ親子は全く新しいスポーツカーを発表する。
早春のロンドン・アールスコート自動車ショーに、オースチン・ヒーレイ100が登場。オースチン社のスポーツカーA90アトランティック用2.7?OHVを搭載した、高性能スポーツカーだった。
ちなみにヒーレイ100のネーミングは、時速100マイル到達を誇示するもので、当時はこの壁到達が高性能のあかしだった。
比較的安価で100マイルという性能が受けたのは、当時スポーツカーブームのアメリカ市場で、たちまち人気者に。
くるま売れれば資金も潤沢。そこでジョフレイが可愛いスポーツカーをデザイン、58年に市場に投入する。
58年日本では、東京タワー完成、フラフープ流行。そして食物市場に革命が起きた年でもあった。即席ラーメンの登場だ。
8月、35円で発売されたチキンラーメンの好評に端を発して、ワンタンメン、タヌキそば、長崎タンメン等々、続々と後追い即席麺が登場、その数、なんと300社にも達した。
さて、可愛らしい新小型スポーツカーは、オースチン・ヒーレイ・スプライトを名乗った。
全長3430㎜、ホイールベース2000㎜。車重665kg。見るからに可愛く二座席小型ロードスターだった。(写真下:スプライトのコクピット。スポーツカーとして最低限必要な装備レイアウトだがコストダウン目的でオースチンなどの量産品を使用)
もっとも可愛いのはサイズだけではなく、スタイリングそしてヒョウキンなツラがまえ、それで“フロッグアイ/蛙の目玉”なるニックネームが生まれる。
スプライトは、オースチンA35のフロア&サスペンションをベースに、直四OHV948ccをSU型キャブレター二連装にして、35馬力から45馬力にパワーアップで、136km/hの最高速度を得ていた。
ちなみにこの性能は、ホンダS600と良い勝負である。
海外ではフロッグアイが愛称だが、日本では“かに目”と呼ばれるようになり、街中で人目を引いていた。
64年6月7日、モーターサイクル出版社が裏磐梯高原で開催の“全日本ヒルクライム競技大会”は、日本で初めてのJAF公認の地方競技。そこでヒーレイスプライトが、三位入賞をはたす。
ドライバーは、日本の自動車評論家では草分けとして知られる、池田英三。彼は、早稲田大学自動車部出身。
昭和30年代から、モーターマガジン誌の新車試乗記を私と二人で担当したことがあり、また私が第五回の優勝者でもある、全日本ベストドライバーズコンテストの第一回優勝者でもあった。
かに目は、わずか3年間で4万8999台も売れた、当時のスポーツカーではヒット作だったが、61年になるとMK-IIに進化する。