【車屋四六】ハドソン1951

コラム・特集 車屋四六

以前、紹介したように好調に売り上げを伸ばし、アメリカ第三位メーカーになるかと見えたハドソンだが、そうは問屋が卸さなかった。(そうは問屋が…江戸時代卸値は問屋が決め値引きしないことから“物事望むようにはいかない”の喩え)

第三位獲得が出来なかったハドソン社も、WWⅡ開戦で、他メーカー同様、42年をもって自動車生産を中止して、お定まりの兵器生産に精を出すことになる。

で、ハドソンの飛行機エンジンは、ベルエアラコブラ戦闘機に、また委託生産の空冷星形ライトサイクロンはカーチスヘルダイバー艦載爆撃機等で活躍した。
我々には憎っくきボーイングB29爆撃機だが、太平洋戦線での使用機体はハドソン製と聞く。また上陸用舟艇、そして神風特攻機の天敵だった20㎜艦載機関砲でも知られている。

WWⅡ終戦で、ハドソンが自動車生産を再開したのは46年。日本はGHQの禁止令で自動車生産は出来なかったが、5万7000円で売り出されたスクーターのラビットが人気者に。/

ハドソンの46年型は、他社同様に倉庫から引っ張り出した金型だから、42年型がタイムスリップし再登場ということだったが、49年になると待望の戦後型に生まれ変わる。
日本ではトヨペットSDやオータPAが登場し、40W型白色蛍光灯が登場、新照明時代が始まった。

49年登場の戦後型ハドソンは年々フェイスリフトして、51年型が写真の車(写真上:上級グレードのホーネット型)。
96年秋に九州で新型トヨタMK-Ⅱの報道試乗会があり、試乗の道中で見つけた九州自動車博物館で見つけたものである。

正面だから判りやすいが、ハドソンの頭文字Hをモディファイしたラジェーターグリルが特徴で、長く低く側面のフラッシュサイドが美しく、全長5200㎜、ホイールベース2975㎜とかなり大型。
値段2568ドルから3099ドルというから、大衆車ではない。

サイドバルブ型エンジンは、直列八気筒で4982cc 145馬力で最高速度180㎞ということでも大衆車ではない。が、廉価版に直六も用意されていた。また、この頃に出始めた自動変速機は、ハイドラマティックが用意され、オプション出来た。

51年というと昭和26年で、三菱ヘンリーJやダイハツビー、トヨペットSFが登場した頃。待望の対日講和条約調印で日本は独立国と認められ、外国一流選手によるプロレスが開催された。
で、力道山が水交社に缶詰で、プロレス技の特訓を受ける。水交社は日本海軍将校の社交クラブだったが、米軍に接収されてマソニックビルと改名、フリーメーソン東京支部の本拠となった。
今では建て替えられて森ビル。東京タワーの下で飯倉寄りの所。

ハドソン伝統の直列八気筒は、日本製のルノー&ヒルマン&オースチンが誕生した53年に消えたが、この頃ハドソン社の経営は右肩下がりで、54年ナッシュ社に吸収されて、アメリカンモータースが誕生する。

ハドソン戦後の生産量はジリ貧で、49年9万1333台、51年4万3656台、52年3万5921台、54年1万1603台。WWⅡの終わりを節目に、残念ながらハドソンの運も尽きたようだ。

さてアメリカンモータースで再出発後、ハドソンはブランド名として残されたが、57年頃にはハドソンのファンも居なくなったと判断されたのか、市場から消え去り、1909年以来続いた生涯に幕を引いたのである。

WWⅡ中戦時体制で自動車生産中止で兵器生産に専念。軍用発動機は勿論、機関砲、ボーイングB29爆撃機も生産する