オートバイで世界のトップに立ったホンダが、次の目標で四輪乗用車市場を目指したのは当然の成り行き。で、二輪グランプリで活躍のスポーティーイメージを生かすのも当然。
噂が飛び交うホンダ初乗用車は、62年(昭37)の第九回全日本自動車ショーに登場した。鈴鹿サーキット完成の年だから、今にして思えば、そんなタイミングに合わせたのかも知れない。その乗用車は我々の予測を裏切り、なんと二座席スポーツカーだった。ホンダ初、日本では軽自動車初、世界でも珍しい極小排気量スポーツカーでもあった。
軽のS360は356cc33馬力、登録車S500は492cc40馬力。最高速度がそれぞれ12㎞と13㎞。誇らしげな四連装キャブのDOHCは精密機器を見るようで、それを後方に45度傾け搭載していた。
同年日本市場に登場の新型車は、フェアレディー1500、マツダキャロル、スカイライン、ミニカ、スズライトなど。
待ちに待ったS500の市販は、ケネディー大統領が暗殺された63年。日本初のDOHCは、531cc44馬力へとパワーアップしていた。
期待のS360が没になったのは、日本政府の乗用車政策に対する配慮による決定だが、理由はまたの機会に。
S500発売の63年は、ブルーバードが二代目になり、コルト1000、コンパ-ノベルリーナ800、ベレット1500、スカイライン1500などが登場した年である。
翌年64年の、デボネア、ベレット1600GT、ファミリア800などが登場の年に、私は進化登場したばかりのS600を買った。
市販開始直後で東京には配車がなく、立川のディーラー経由だったから、住まいが麻布なのに多摩ナンバーになった。
私のS600は極く初期型だから、ガラスカバー付きのヘッドライトが特徴。前輪は常識的Wウイッシュボーンだが、後輪が本田宗一郎の面目躍如たる二輪方式の特異形式。
SシリーズはFR方式だが、リアデフを固定、両側に伸びるドライブシャフトがチェーン内蔵のアクスルチューブ、それで駆動するカンチレバー型。その部分だけ見れば完全に二輪と同じ機構、オートバイ屋らしーユニーク発想だった。
開発中、この本田社長のアイディアに反対したのが中村良夫、元飛行機屋で後のホンダF1チーム監督。が、結局、社長に押し切られるが、レース対策で生まれた最終型S800では、常識的なデフを持つリジッドアクスルに変更されていた。
私愛用のS600はカンチレバー型だから、初めての発進でビックリ驚いた。普通FRの急発進は尻を下げるものなのに、S600はクラッチをミートした途端、尻を持ち上げたのだ。不思議な挙動をするものだと感心したが、馴れてしまえば問題なかった。Sシリーズの値段は、S500が45万9000円、S600は50万9000円、65年追加のS600クーペ54万5000円、そしてS800が65万3000円だった。
S800登場の65年、外貨不足で55年から禁止の外車が輸入再開。日本製新型車は、プレジデント、コンテッサ1300、コンパーノスパイダー、シルビア、コルト800、フロンテ800、ファミリア800、そしてトヨタS800など。
その頃日本は、鈴鹿で火が点いたモータースポーツが過熱期。その中快調に飛ばしていたホンダS600の前に立ちはだかったのが、トヨタS800だった。
で、対抗上誕生したのが798cc70馬力のホンダS800。最高速160㎞は当時のサーキットの華のコロナ1600Sやベレット1600GT、ブルーバードSSSなどと同等で、走りの韋駄天ぶりも一流だった。