(写真上:スバル1500、20台ほど量産試作して群馬で登録した1台を当時の丸の内本社前で撮影。試作の何台かは走行実験目的で地元タクシー業者に。後方は、いすゞヒルマンミンクス)
1945年(昭20)頃、敗戦貧乏の日本経済は朝鮮戦争の特需で立ち直りの切っかけを掴み景気回復のきざしが見え、日本初の高額紙幣1000円札が発行された。
その当時、登場したブローニー6×6サイズのリコーフレックスが市場を独占する大人気。一時は日本製カメラの半分がリコーという人気ぶりで、日本中に二眼レフブームを巻き起こした。人気の秘密は格安値段。当時二眼レフは2万円を越えるのに、リコーなら高額紙幣1000円札7枚で、200円の釣りが来るのだから人気高騰も当然だった。
(写真上:リコーフレックス(50~60年):写真Ⅶ型は54年~:当時カメラ本体はダイキャスト主流だが板金溶接で低価格実現。レンズ:アナスチグマット80㎜F3.5、シャター:リケン・B・1/10~1/200)
同じ頃、旧中島飛行機の伊勢崎工場を主体とする富士自動車工業で、画期的乗用車の開発が進んでいた。
元々この工場では、飛行機で手慣れた技術を生かしたモノコックボディーのバス生産が当たり、業績は好調で更に発展目標として、乗用車生産を思い立ったのである。
後に取締役技術本部長になる百瀬晋六を呼んだ松林専務の「乗用車をやりたい」の一言が発端だった。
先ずボディーは得意のフルモノコックボディーに決定。こいつは自動車業界では世界初だったが、こと自動車に関する知識は皆無。
今にして思えばスバルの乗用車技術は、神田の古本屋、日本橋丸善の洋書、ちまたの図書館が師匠だったことになる。そうこうするうちにたどり着いたところが日比谷のCIE図書館。(GHQ=連合軍最高司令部所属)
その頃、三菱、日野、日産、いすゞは、提携した外車生産で最新技術の習得、独立独歩に見えるトヨタもGMやフォード、VWを研究していた。
一方ゼロから出発のスバルは、掻き集めた知識で絞り込んだ的の英国フォード製コンサルを購入、解析研究しながら、スバルの構想を固めていった。スバルの最優先項目は乗り心地。当時の日本は世界に誇る?悪路。アメリカの専門家が評して「日本の道路は道路ではない道路予定地だ」と云ったのだから、乗り心地重視も当然だった。
航空再開直後の日航ダグラスDC-3双発木製号が大島三原山に墜落した52年に、スバルの本格的開発が始まった。
試作コードはP1。FG4A型1.5?48hpエンジンは富士精密(旧中島荻窪工場)担当と決定。細部設計も順調と思った矢先に問題発生。
資本関係にあるBSの意向で、富士精密とプリンス自動車の合併で、ライバルとなった富士精密からのエンジン供給がNGに。
昔の諺(ことわざ)で「捨てる神あれば拾う神あり」とは良く云ったもので、大宮富士工業(旧中島大宮工場)の直四OHVのL-4型を発見し採用する(当初45馬力だったが最終的に63馬力)。この45馬力は富士精密製より劣るがクラウンと同等だった。
P1は、第五福竜丸がビキニ環礁で被爆した54年2月に完成。やる気満々の北謙治社長が“スバル1500”と命名した。
が、残念なことに、スバル1500の販売は実現しなかった。
残念な理由は、中島飛行機が財閥解体令で分解した中の六社合併で生まれたばかりの富士重工に、スバル1500の生産用新工場建設、新販売網整備に必要な莫大な投資が不可能だったのだ。
もし生産発売されていたら、55年発売のトヨペットクラウンより、1年早かったはず、惜しいことをしたものである。
日本が国連に再加盟「戦後は終わった」の経済白書宣言の56年に、大学やメーカーの専門家が集まる自動車研究会が、各社の自動車を集めて、恒例の遠乗り試乗会を開催した。その日参加の、クラウン、いすゞヒルマン、日野ルノー、日産オースチンなどを試乗の結果、トップ評価を受けたのがスバル1500だったと当時の参加者から聞いたことがある。