満州国建国、上海事変が勃発した1932年(昭7)、パリ自動車ショーの晴舞台で一躍注目を浴びたのが、メルセデスベンツ500K。(写真上:ダイムラーベンツ社所蔵の500K)
同年上海では、精鋭の海軍陸戦隊=海兵のお洒落な白いスパッツ姿が、夜になると目立って狙い撃ちされる。反省した海軍は、普通の巻き脚絆(きゃはん=ゲートル)に改めたと、子供の頃聞いた。
500Kが注目を浴びたのは、美しく堂々の姿に加え高度な技術が結集されていたからだ。WWⅡには未だ遠いその時代のダイムラーベンツ社は、充実した黄金期を迎えていた。
500Kのサスペンションは、前輪ウイッシュボーン+コイルスプリング。後輪が二本のコイルスプリン+ユニバーサルジョイントの斬新スイングアクスルで、その四輪独立懸架は、優れた操安性と素晴らしい乗り心地を両立させていた。(写真下:贅をつくし職人技が冴える500Kのインテリア:ダイレクトシフトのレバーが異様に長い・ハンドル内側ホーンリングは多分方向指示連動だと思う)
ただ高性能と云うだけなら、ダイムラーベンツ社には、既にグランプリレーサーとも張り合える実力の持ち主500Sがあったが、500Kは全く違う観点から開発されたのである。
ロングツーリングで最高の快適性、最高の安全性、そして最高の性能を優雅に発揮できるというのが開発コンセプトだった。
近頃、意味合いが変わってしまったが、本来のGT、グランツーリスモの源流の一台と云ってよかろう車である。
もちろん、世界でも一握りの金満家の持ち物としてであるが。
500Kはエンジンも素晴らし。プッシュロッド型OHV5000ccは強トルクではあったが、出力は100馬力と以外に低い。が「いざ鎌倉」一気にアクセルを床まで踏み込めば、いきなり160馬力跳ね上がるという仕掛けになっていた。
その仕掛けはスーパーチャージャー。ドイツ語でコンプレッソールだから、500Kの名がという専門家も居る。
いずれにしても、160馬力になれば、500Kの2トンもの巨体が、時速160㎞で走るというのだから、たいしたものである。
500Kがデビューした32年は、日本が七個の金メダルに輝いたロサンゼルスオリンピックの年だが、4年後のベルリンオリンピックの36年に500Kは、5400ccに気筒容積拡大で180馬力になり、最高速度も175㎞に上昇する。
その評価は「速いが優雅」こいつは今でも同じ褒め言葉を使う専門家が居るほどである。
500Kのカタログには、コーチワークされた七種類のボディーが載せられていたが、一番人気がロードスターだったようだ。
500K誕生の年、日本ではラヂオ聴取登録が100万台を突破した。そして大正7年のNHK放送開始時7円だった年間聴取料金が普及と共に下がり、大正15年には1円、そして32年、ついに75銭に値下げされた。
ちなみに、建国された満州国に開局した奉天放送局には、若き日の森繁久弥アナウンサーが居たそうだ。
日本の放送については、当時もう一つのエピソードがある。ロサンゼルスオリンピックの実況中継。実は、この放送は偽放送だったのである。
何かの事故で、実況放送ができなくなり、競技終了後に、あたかも競技を見ながらという放送をやってのけたのだそうだ。(写真下:フロントウインドーを前倒した500Sロードスター)