【車屋四六の good days and good cars】ダットサン物語-2

コラム・特集 車屋四六

関東大震災で壊滅的被害を受けた帝都のインフラ復旧のために、復旧に時間が掛かる市電の代わりにと・バスが表舞台に登場し、特権階級の持ち物だった乗用車も、裕福だが庶民も乗るようになった。

そこに目をつけた、フォードとGMが日本に工場建設で、売れ行き不振になった快進社の打開策で、合併という話が、前回だった。

大正15年=1926年、快進社は、大阪の実用自動車と合併した…久保田鉄工所・久保田健次郎の会社で、米国人ゴルハムが開発した、リラー号を生産販売していた。

 

 

実用自動車の創業は大正8年…米国でギャング横行のきっかけとなる、禁酒法が始まった年だった。合併の主体は実用自動車だったが、生産はダット號と決まり、社名もダット自動車製造と改められた。

快進社の橋本増二郎社長は、新会社の専務取締役になり、ダット號は、51型、61型と進化を続け、軍用の71型も開発された。

そして、いよいよ登場するのが、鮎川義助だが、その前に、快進社誕生と、ダット號誕生について、触れておこう。

米国から帰国した橋本は、優れた技術を買われて、明治38年=1905年、日露戦争開戦の年に、越中島鉄工所に就職するも、経営不振で九州炭鉱汽船に吸収されるが、これが橋本には幸いとなる。

新会社の田健次郎社長(田英夫元議員の父)そして重役の竹内明太郎(後に小松製作所創業)に認められ、熱望していた自動車製造が実現することになる。

田と竹内は、友人の青山緑郎(後に安立電気創業)を誘って出資して、誕生したのが快進社だった。大正元年に快進社が誕生し、大正3年に誕生した自動車には、ダット號と名前がつけられた。

ダットは、韋駄走りを意味する脱兎に通じるが、実は出資者に対する、感謝の気持ちの現れでもあった。ダット號=脱兎號=DAT號で、D=田健次郎、A=青山緑郎、T=竹内明太郎、というのである。

ダット号は、当初V型二気筒の31型だったが、大正5年に直列四気筒の41型(前回に写真)に進化して、実用自動車との合併を迎えるのである。

 

ダット号

 

関東大震災のトバッチリで営業不振になり、実用自動車との合併で生き返る、まさに{風吹けば桶屋が儲かる}を、絵に書いたようになった。

風吹けば桶屋が・・は、古いことわざだが、たぶん江戸っ子のコジツケで生まれたのだろう。

強い風が吹くと、土ぼこりが目に入る→で、盲人が増える→盲人の商売はアンマか三味線弾き→三味線が売れると、猫の皮の需要が増える→で、街から猫が減ればネズミが増える→増えたネズミが桶をかじる→桶が売れれば桶屋が儲かるという因果関係を、無理につなげた論理で、駄じゃれ好きな江戸っ子の言葉遊びから、うまれたコトワザのようだ。

快進社の場合は、風でなく関東大震災から始まり、合併ということになるのだが、その先は、次回に。

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