片山さんが、アトランタで大歓迎を受けてからしばらくたった1998年「オトッツァンが大変だぁ」と、ケン坊から電話があった。「マッド・マイクから電話でオトッツァンが自動車殿堂に入った」というのである。テキサスで印刷業を営むマイクは、Mr.Kの信奉者でZカークラブの重鎮だそうだ。
で、片っ端から仲間に電話した一本が、私あてだったのだ。別名「浅草放送局」と異名を持つケン坊に伝えれば、1時間で仲間内に知れ渡るといわれた浅草育ちの江戸っ子ケン坊である。早速、著名自動車評論家が広報に問い合わせると「知りませんだってさ」「日産てぇ会社どうなってんだ」と首をかしげていた。
本稿で既にダットサンDC-3、MG-TDのオーナーで登場している金子昭三が後日、日産役員にその話をしたら「片山はウチが給料を払っている人間だ」という。裏をかえせば、日産には受賞に値する人物が複数いる(多分歴代社長を指すのだろう)それを差し置いて受賞するなど僭越(せんえつ)だということなのだろう。
「本人の希望でなく殿堂が決めたのだから仕方ないだろう」と問えば「辞退すべきが常識」と答えたそうだ。金子さんは新聞社出身、自動車評論家の長老で我々の御意見番。奥さんが川又克二社長の秘書だったと聞くから、親しい役員がいるので上記答えが日産上層部の本音と受けとめて間違いなかろう。
オトッツァンは「くれるというんだから喜んでもらうよ」と授賞式に出席したが、日産としても栄誉なはずなのに私の知る限り、日産の日本での祝賀会はなかったと記憶する。
一方、慣習では受賞すると企業は100万ドル程を寄贈するのが習わし。同時受賞のシトロエンやオペル、当人は既に逝去しているが会社が元気だから寄付したろうが、受賞には冷ややかな本社との間で困ったのが米国日産。「20万ドルほどをかき集めて寄贈したらしい。オトッツァン肩身狭かったろうなぁ」とケン坊がいっていた。
日本での受賞祝賀会は、霞ヶ関ビル34階の霞会館で。日本自動車研究者ジャーナリス会議=RJC主催で開催された。霞会館とはWWⅡ以前の華族会館。今でも一般人は使えないが、元男爵荒木貞夫の長男・貞発がRJC会員なので使用できたのだ。
輸入自動車界のドン、梁瀬次郎も訪れた会は盛況で片山夫妻は機嫌良く談笑していた。その会場には、日産・塙義一社長の花が飾られていたが、片山さんに丁重に挨拶する広報部長の一存だったのか、会社の方針が変わったのかは定かではない。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。