片山豊よもやま話-17

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「オトッツァンの事務所の壁にZ旗が」とは、片山一家壱の子分・佐藤健司ことケン坊。Z旗とは万国船舶信号旗用アルファベット最後の一文字だが、日本では「興国の興廃この一戦にあり…」の名句で知られる旗じるし=強敵ロシア・バルチック艦隊に挑む東郷平八郎司令官が、旗艦三笠のマストに必勝の決意で掲げた旗である。

「米国赴任時に兄からの贈り物」というから、Zカーには関係ないようだ。片山さんのZ旗は、日本車不振の米国市場に乗り込むオトッツァン必勝の決意、心意気だったのだろう。

1996年オトッツァンからの私宛年賀状:25年が経ちビンテージカーの仲間入りと誇らしげだ。

オトッツァンの要望アイデアで生まれた240Zは発売直後から注文殺到。1年待ちも出て売れに売れ、片山さん在米7年間で38万台を。その後も進化しながら1997年、ダットサン300ZXが販売終了するまでに、実に142万台を売り上げたのである。

こいつはスポーツカー史上空前の世界記録で、サーキットではポルシェと一騎打ちの様相を呈し、そのせいで欧州の老舗スポーツカーブランドが廃業、休業状態にもという現象まで生まれた。

ダットサンZは、欧州スポーツカー会社にとっては、迷惑なスポーツカーの登場だったのだ。ちなみに米国でZは、ズィーと発音して、米国人は240Zを、ツー・フォーティー・ズィーと呼ぶ。米国日産を設立、ゼロからのスタートから大きな成果を上げた米国日産・片山豊社長も、任期満了の辞令で帰国した。

片山さんのアメリカでの愛車/帰国時に「15年間ありがとう」と秘書ジョニー・リナードに贈ったダットサン240Z/1970:今も健在と写真家の夫が撮った写真で作ったオトッツァンの年賀状。

在米中の功績を考えれば、凱旋将軍のような出迎え、そして本社には重要ポストの椅子が待っている、が世間の常識だが、日産の待遇は相変わらずだった。少なくとも広報宣伝部長、多分取締役の肩書き付きと我々は思ったが、期待外れだった。

米国で受け取った帰国の辞令は、日産社員としての雇用契約終了だったのである。そして第2の就職先に用意されたポストは、日産系一流系列企業社長ではなく、ショーの造作飾り付けなどを担当する小さな会社で、しかも経営に口出しできない会長…もう手柄を立てるのは迷惑、といわんばかりだった。

愚痴をこぼさない、悪口を言わない、いつもニコニコ笑顔を絶やさずの温厚なオトッツァンは、一生日産を愛し続けた人だった。が、戦後の現実はボイコットの連続。日本一長い歴史の自動車会社らしく、手元の社史3冊を並べると横幅16㎝にもなるが、偉大な功績をあげた片山豊の名を見つけられなかった(見落としあれば御容赦を)。抹殺されたとしかいいようがない感じだ。

昭和10年/1935年、技術者希望で日産に入社するも、宣伝部に回され少々落胆。が、持ち前の向上心と闘争心で、誕生したばかりのダットサンの知名度を上げること必要と活動開始した。

WWⅡ開戦前三越百貨店納入の日産貨物自動車:戦前天下の三越の看板を背負った派手なトラックは日産に大きな宣伝効果を上げたことだろう/当時セミキャブオーバー型は珍しく同型バスが来ると今日はついていると子供心に嬉しかった。

戦前、宣伝販売促進のため、女学校卒のダットサンガールを組織。キャラクターに有名女優を。天下の三越に貨物自動車納入。人気の松竹女子レビューの舞台にダットサンを10台…次々と奇想天外な手段で、ダットサンの名を小型車の代名詞的存在にまで育て上げた。

戦後は過酷な豪州ラリーで「日本車が初優勝」とロイター通信が世界に発信して、ダットサンの名を世界に広め、米国では240Zでダットサンの知名度、信頼度を確立し大成功を収めたのである。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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