片山豊よもやま話-16

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アメリカ人は基本大型車大好きだが、買えない階層もいる。で、中古車を買うがアメリカ車はアフターサービスが悪い…整備悪けりゃ燃費も悪化。で見直されたのが丈夫で燃費が良い日本車。その評判がフォルクスワーゲを上回るようになり510もドンドン売れる。売上げが伸びれば、本社は片山さんの要求を聞く。で生まれた610(U型)も好評だった。

手を焼くアメリカに、ダットサン・ピックアップで市場潜入に成功。一方、乗用車も徐々に売り上げを伸ばしたが、本当に勢いづくのはスポーツカーのZ=ズィーカー登場からだった。

Zの登場は1969年で、日本では2ℓ仕様だったが、輸出専用モデルの2.4ℓを、アメリカではダットサン240Z(ズィー)と命名した。

世界最大の米国スポーツカー市場参入に成功したダットサン1500:片山さんの要求で、パワー不足、効かないブレーキなどの問題を改良進歩しながら1600、2000と進化していった。

「もうからなくてもいい、クルマ屋にはスポーツカーが必要」が持論のオトッツァン。Z登場前も、当然のようにダットサンSP1500→1600→SR2000と売ってはいたが、どれも純粋なスポーツカーとして開発されたので、誰もが楽しいスポーティードライブをという、オトッツァン理想のスポーツカーではなかった。

で、たくさん売れるようになって、オトッツァンの提案要求に耳を傾けるようになった本社に「オープンのSP・SRはハイウェイで風を巻き込むと不評もあり、寒暖風雨雪…いつも快適な屋根付き、ジャガーEタイプのようなクルマが欲しい」と訴えたのである。

240ZをジャガーEタイプクーペの模倣と断言する輩(やから)がいるが、片山さんはオールマイティーに使える全天候型クーペの例としてEタイプと表現し、その要求に応え日産が独自開発したのがZなのだ。

「240Zの登場でトラック、乗用車、スポーツカーと揃い全ユーザーに対応可能になった。このズィーカーはアメリカ人の要求に応える開発をした。日本製だがアメリカのクルマである」とオトッツァンはディーラー代表の前で胸を張り挨拶したそうだ。

オトッツァンの持論は「スポーティに楽しく走れれば、ピックアップも510も皆スポーツカー。その最上位が240Z=ツー・フォーティ・ズィーだが、安くて誰もが買えて、誰もが楽しくなくてはならない」と説く…渡米して10年、片山さんの目標は第1段階をクリアしたのである。

240Zの値段は3,600ドル、ライバルの安いスポーツカーでも倍もしたから、発売即売れ初め、生産が間に合わないという現象まで引き起こした。

片山流GT、ダットサン240Zは乗用車並に売り上げを伸ばす一方で、サーキットでは宿敵ポルシェと戦い続けた:240Zと米国スタッフと片山社長/右から2人目。

オトッツァンの目論見通り、Zカーは若い女性が通勤に遊びに、中高年が買い物に長旅にと、広範囲に使われた。もちろんサーキットでも活躍。こいつは欧米のスポーツカーとは違う様相だった。

日常の足として気軽に使え、いざ鎌倉とひとムチ入れればサーキットで韋駄天(いだてん)のごとく、オトッツァンの目標は真のグランツーリスモ=GTだったのだ。良質な乗り心地、高性能、頑丈、低燃費、低維持費、廉価などと揃えば鬼に金棒だった。

1960年から片山さんが米国日産を辞める77年までに、スポーツカー史上の記録更新を続けながら、実に38万台を売り上げた。そのせいで欧米の名門老舗スポーツカーメーカーが数多く淘汰(とうた)されたのである。欧州のメーカーにZは、迷惑な存在だったろう。

もっとも、小さな工場で手作り同様の欧州スポーツカーと、乗用車レベルで量産のZカーを較べるまでもなく品質装備の差が出る。特にコスト面では、歴然の差が出るのが当然だったろう。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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