前回紹介のフライングフェザーは、日産を愛するがゆえの社外脱線作業だったが、オトッツァンのアイディアは更に発展、それは日本自動車産業全体の発展につながった。
「各社水面下でいがみ合っていてもしようがない、足並み揃えて前進しなければ日本自動車産業の発展はない」と、各社の宣伝課長クラスが定期的に会合するようになったのも、そこで持ち上がった自動車ショーの開催も、片山さんの考えだったようだ。
圧力をかける業界紙などをかわしながら、ショー開催に漕ぎつけ、全日本自動車ショーの日比谷公園開催は1954年だった。ショーのシンボルマークの木製車輪を廻す月桂冠の人物は、片山さんがモデルだといわれている。
高松宮殿下を総裁に開催されたショーは無料で、10日間で55万人弱の観客が来場した。当時三種の神器が「電気冷蔵庫、電気洗濯機、電気掃除機」という頃に、自動車など庶民には夢のまた夢だったが、主催者側はショーには無縁と思われる観客を、将来に繋がるユーザーと受け取り、成功と喜んだそうだ。
私も行ったが、駐車場がないので自家用車は全て日比谷交差点周辺の路上駐車で、会場の名ばかりの駐車場は自転車ばかりだった。が、翌年の駐車場は沢山のオートバイだったから、この時代の経済発展がかなり急テンポだったことがわかる。
第1回ショーの展示車は、国産車267台/254社だったが、大部分が二輪車で、あとはバスやトラック、三輪貨物自動車、消防車などで、乗用車は僅か17台だった。
昔のことだが、プリンスセダンは記憶にある。トヨタはタクシー会社御用達のトヨペットスーパー。それに日野ルノー、いすゞヒルマン、日産オースチン、ダットサンスポーツ、オオタ、他に軽自動車などもあったようだが、何しろ67年前のことだから記憶はおぼろげである。
戦後9年、第1回ショー開催の54年は、ちょうど戦後復興経済が上向き、加速され始めた頃だからグッドタイミングだったといえよう。そもそも北朝鮮が韓国に突如侵攻した朝鮮動乱で、米軍の軍需物資調達と戦場で壊れた兵器の補修で、日本は産業回復の兆しを掴んだのがラッキーだった(他国の不幸を喜ぶのは不謹慎だが)。
今では朝鮮戦争と呼ぶが、当時の新聞や報道は朝鮮動乱だった。的確な定義はないようだが、宣戦布告したら戦争で、布告なしなら動乱・事変だが、政治的都合で戦争と呼ばない国もある。
そんな54年/昭和29年の日本は、第五福竜丸水爆放射能被爆、全国的にパチンコ流行、プロレス人気、マリリン・モンロー来日、若者はマンボを踊り、ゴジラなどが巷の話題だった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。