東京のタクシー事情

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幼稚園の頃、大森駅に着くと自宅まで、母が一緒の時は二人乗り人力車、父だとタクシーなので、それが嬉しかった。
そんなタクシーが東京で初めて走ったのは、1912年/大正元年で、6台のフォードで営業する会社が有楽町に開業したのが元祖。
が、往復は新橋駅と上野駅。大正3年東京中央駅が開業すると東京駅に進出するが、当時流しはせず駅待ちなので「辻待ち」と呼んだのは、江戸時代の辻カゴが語源と言われている。

大正12年の関東大震災後、手っ取り早い交通復旧手段で、フォードのシャシーで乗合バスを急造「円太郎バス」が誕生したのは前回の話で、タクシーの利便性が立証され、震災時500台ほどだったタクシーは増加の一途をたどり、昭和7年頃には1万台を越える時代を迎える。

神田錦町の須田町タクシーの開業ちらし:親切丁寧高級車が自慢・綺麗な箱形車で市内一台一円均一・夜間割増無・時間貸一時間二円/五時間以上割引あり。

が、その過程で客とのトラブルが増えたのは料金がバラバラだったからで「この前はもっと安かった」というのが原因だった。

で、大正13年大阪に、15年東京に登場したのが、市内一円均一料金制だった。子供の頃父親が「今日は円タクで行こう」と云う代名詞「円タク」という言葉が生まれたのは、一円均一タクシーの短縮で、大正15年=昭和元年だから、代名詞は昭和元年誕生ということになる。

その後、物価に合わせてタクシー料金も値上がりするが、円タクという言葉はそのままで、それは終戦まで続いた。
タクシーに料金メーターの登場は、大阪に昭和9年、東京は13年だが、切っ掛けは、それ以前のオドメーター×料金時代に、運転手が売上げをごまかすのが経営者の頭痛の種だったからだ。

そのオドメーター時代の料金はマイル基準で、昭和5年に3.2㎞で50銭、7年に30銭に下がるが、WWⅡ突入の16年には70銭に。そして20年終戦以降は100円だった。

終戦以後、タクシー業界を牛耳る「大日本帝国」と呼ぶ四大タクシーは、戦時中役所が管理しやすくと在京業者を集約誕生した…それが大和自動車・日本交通・帝都自動車・国際自動車だった。

戦前のタクシー運転手から聞いたのだが「モデルチェンジは迷惑・客は新型が好きでフォードは田舎臭いからシボレーなんてね」また「悲鳴が聞こえるので見ると間抜けな運転手が顔をしかめている・逆ピストンで手に怪我しやがって」要は始動に失敗しクランク棒でケッチン食らったのである。

終戦直後の新橋駅前の客待タクシー:戦前日本で生産したフォードかシボレー/後部に背負うは代用燃料用釜。左端路上の塔は戦後流行した広告塔・上は第一ホテル

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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