ファン・マヌエル・ファンジオ見参

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レースファンなら誰でも好きなドライバーがいるだろう…私はファン・マヌエル・ファンジオだ。中学・高校生だった敗戦後の昭和20年代、レースに関しては鎖国状態の日本で、たまに手に入った雑誌でファンジオという名手の存在を知ったのだ。

彼は、マセラティ、ベンツ、フェラーリのエースドライバーとして、グランプリ出場51回で優勝24回、ワールドチャンピオン5回というのだから大した人物だ。

1911年アルゼンチン生まれの彼のGPの出発点はアルファロメオだった。が、GPでは恐るべき遅咲きで「ティーポ158に乗らないか」の勧誘でチームに参加が33才で、51年にGPチャンピオンになったのが快進撃の始まりだった。

この158の誕生はWWⅡ以前で、開発の動機は国家庇護を受けたベンツ、アウトウニオン打倒で生まれた苦肉の策に沿ったもの。38年9月、イタリアは国内GPを1.5Lと規則改正した。破竹の勢いのドイツ勢も短期間で新開発は無理との予測だった。が、その奇策も的を外れ、8ヶ月でW165を開発したベンツに優勝をさらわれてしまった。

158の開発者ヨアッキーノ・コロンボは、鬼才ビットリオ・ヤーノの直弟子だった。この158は1.5Lと小柄なため、ティーポ158アルフェッタ=小さいアルファと呼ばれた。

ティーポ158のポスター:伝統モンツァでの輝かしい戦績を誇らしげに/ムゼオアルファロメオ博物館で。

が、ドイツに負けた158は、これで終わりかと思ったら、再び羽ばたいた。それはWWⅡ戦後の46年から52年にかけてだった。WWⅡ中工場は爆撃で壊滅したが、何台かの158が隠匿されていたから、レース再開では、有利な立場にあったのだ。

で、マセラティやタルボ、ERA、フェラーリなどを相手に活躍、ワールドチャンピオン制度が生まれた1950年には、一位ジュゼッペ・ファリナ、二位ファンジオ、三位ファジオーリとアルファ勢が独占したこともある。

この勢いに当然ライバル達も発憤するが、それを迎えるアルファは、158をベースに改善したティーポ159を開発し、51年にはファンジオのチャンピオン獲得で、これに応えたのである。

ある資料によれば、158と159は、1947年、48年、49年、51年のF1の35レースで合計99回登場し、優勝31回、二位19回、三位15回で、50年ファリーナ、51年ファンジオと二人のワールドチャンピオンを生み出している。当時コンストラクターズチャンピオンがあれば、間違いなく、上記四年間を連続チャンピオンの王座に座っただろう。

マヌエル・ファンジオとティーポ159:直八DOHC・1479ccは当初ルーツブロアー加給で195馬力だが最終的には350馬力/最高速度290㎞。そして基本変わらずの159では425馬力/305㎞は実に1ℓ当たりの出力287馬力である。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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