三角窓と云っても通じない世の中になったが、とても便利で有り難い窓で、夏の暑い日、吸排気など、またとない便利な装備で、1930年代後半から50年代までが全盛期だった。
少し開くと、排気効果抜群、煙草の煙など一瞬に消え、梅雨時ガラス曇らず、開いていくほどに効果上昇、90度を超えると排気から吸気に一変し速度が上昇するにつれ、外気導入が強烈になり、夏期には顔や胸の熱気を奪ってくれた。
前ドアのAピラーに近い三角地帯にあったので三角窓と呼ぶようになり、多少の価格上昇をいとわぬ中級車以上では、Cピラーに近いリアドアガラスにも付いて開閉可能だった。
近頃では目を皿のようにしても見つからないが、三角窓が消えていく頃、メーカーの開発者達はスタイリング向上を口にする者が多く、米国では窓のストッパーで怪我人が出たからという話もあった。が、今にして思えば、単にコストダウンが目的と推測される。
いずれにしても三角窓を捨てることが出来たのは、エアコンの普及が助けたようだ。当時のエアコンは単なる冷房装置だったが。
手元の資料でAC世界初装備は米国で38年登場のバス。乗用車世界初は40年型パッカード。が、WWⅡ後に戦勝国が日本に持ち込んだ欧米の新型車は未だ三角窓全盛だった。
キャデラックやリンカーンなどの米国高級車のオプション設定は50年前後からで、標準装備世界初はキャデラック54年型だったと記憶する。
さて日本は?というと、オプション用品としての登場が57年頃で、東芝、電装、ヂーゼル機器などからで、大型車向けトランク内蔵型と小型車向けアンダーダッシュ型があった。
その頃はブルーバード誕生で、主に裕福な外車向け後付け用品だった。もっとも取り付け費込み値段が25万円前後だから、63万円のブルーバードに冷房などと考える人は先ず居なかった。
国産のオースチン→ヒルマンに装備する裕福オーナーも居たが、膝が当たって窮屈と助手席では評判が悪く、奥さん娘達はスカートの中を直撃する冷風に困惑していた…ジーパン全盛の今なら問題なかろうが。
一方で、後付けエアコンを喜ぶ修理業者も居た…エンジンルームにコンプレッサーや付属機器を組込まれ、前輪荷重の増加で前輪スプリングがへたる。大型のアメ車でコンプレッサー側が余計にへたり、私の工場でも円盤状シムで左右高さ調整をしたりした。
60年代、真夏の暑い日に窓を閉めて走るのはステイタスだった。一般ドライバーは三角窓効果が消える信号待ちでは、商店名の入った団扇を使い、12Vの扇風機などは贅沢品だった。
冷房装置キット同梱の青い「冷房車」のシールを後ろ窓に貼れば、それだけで誇らしくなる。信号待ちで青いシールの車の隣に停まり、閉まった窓を羨ましく覗くと、涼しそうな顔してはいるが汗びっしょり、なんて滑稽もあり、大方は見栄っ張りそうな中年オバサンだった。
いまでも三角窓復活を希望する人は多い。ミニバンなどの嵌め殺しの三角ガラス部を「せっかくあるのだから開けたら」と開発技術者に提案することしばしばだが、馬耳東風のようだ。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支 離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格 審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち 」「懐かしの車アルバム」等々。