ミカサツーリングにそっくりだったフィガロ

コラム・特集 車屋四六

作れば売れるバブル崩壊末期、日産は少量生産車連発で稼いでいた。それは1987年のBe-1で始まり、89年パオ、次ぎエスカルゴ、そして91年フィガロが登場した。そのお披露目は、箱崎に開業したばかりのロイヤルパークホテルだった。

第12代久米豊社長挨拶のあと実車披露…近寄ると何故か懐かしい「こいつは見たことがある・そうだミカサツーリングだ」可愛い車を開発した技術屋さんにケチをつけるつもりは毛頭ないが、昔見たミカサツーリングにそっくりだったのだ。

「へ~っそんな車あったんですか」フィガロの開発主査も驚いたのでなんの関連もないと思った。もっともミカサツーリングは彼が生まれる前の車だから、見るはずもなかろう。

ミカサツーリングの開発は岡村製作所…といわれてもピンと来ないだろうが、スチール家具のオカムラなら誰でも判るだろう。
岡村は敗戦で職を失った航空技術者達が、これからの需要予測で白羽の矢を立てた家具で創業した企業だった。

が、優れた技術屋集団らしく、何故かトルクコンバータを開発しディーゼル機関車などに採用された。ちなみに国産初のトルコンである。そのトルコンの用途を更に広げようと自動車に目を付けた。

で、登場したのが58年=昭和33年だから、日本初のAT車だと思う。残念なことに乗ったことがないが、街を走る姿は数回見たことがある。ステーションワゴンもあった。

当時、自動車工業会の分類では軽自動車だが、全長3810㎜・全幅1400㎜・ホイールベース2100㎜・車重600kg。車の出来は上々なのにミカサは売れなかった。理由は高価格…スバル360の42万円に対してミカサは何と87万円、売れなくて当然だった。

が、斬新な前輪駆動で空冷水平対向二気筒、極めつけがトルコンでノークラッチ。最高速度90㎞を誇った。このFWD&空冷水平対向二気筒は、シトロエン2CVを参考と聞いて納得した。

ちなみにトルコン開発は、進駐軍のディーゼル機関車がヒントで国産化に成功したと聞く。そして47年GHQの航空機製造禁止令解除で、一番乗りを目指したN52型を開発し、運輸省型式証明まで取得したのに売り出されることはなかった。

GHQの禁止令解除で国産機一番乗りを目指したN52型二座席軽飛行機:53年初飛行、54年耐空証明取得。市販目的のN52A型諸元/全長6米x全幅8.6米・発動機コンチネンタル95馬・最高速度160粁・航続距離400粁。朝日新聞が資金援助、木村博士主導の日大工学部が設計、製作は戦中のプロが揃う岡村製作所

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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