ミニクーパー誕生

コラム・特集 車屋四六

エンジンと変速機を二階建てにした小型ユニットを横置きする発想は、当時コロンブスの卵で世界の技術屋を感心させたが、今では当たり前、時間が進めばあの感激は何処へやら。

さて、ツェッパ型ジョイントでミニの前輪駆動はスムーズになったが、まだ完全な物ではなく、完全にしたのは富士重工。スバル360開発時にFWDを想定したが、満足するジョイントが見当たらずRRを選択。が、ミニの成功でスバル1000でFWD採用し、バーフィールドと提携、技術者が派遣された。

が、突き詰めると欠陥があり、独自で開発に成功して気がつくと英人技術者が居ない。結局バーフィールドが特許を取得、島国育ちのスバルはトンビに油揚げをさらわれてしまった。

ミニの斬新技術は二階建てばかりか、ダンロップ協力のラバーコーンサスは、円錐状ゴムクッションが短いストロークで驚異的吸収力を発揮、スプリング無しで機構簡単軽量化を果たし、走ればロールが少ない独特な操安性を生み出した。

初期のアレック・イシゴニスのラフスケッチ:フロント周りの構想中と思われる

1964年サスは更に進化する。内部に空洞とオリフィスを持つゴムバネに不凍液を満たしたパイプでつなぐ{ハイドロラスティック型}誕生。快適な乗り心地は{魔法の絨毯}と呼ばれたりしたが、コストが高く、再度ラバーコーンに戻された。

ミニ誕生時に市販品がなく、ダンロップが開発した10インチタイヤは、慣性質量が少ないのと操舵量が少ないステアリングと相まって、ゴーカートのような独特な操安性を生み出したが、低速時の操舵には相当な力が必要だった。

話変わって、トライアンフでレースを楽しんでいたMr.クーパーは、新進ロータスに刃が立たなくなり目を付けたのがミニ。848ccを997ccにボアアップ、SUキャブ二連装で34馬力を55馬力に。サスにも手を入れて競争バージョンを仕立てた。

結果は上々で、ミニクーパーの名で発売し、1万2274台も売り上げて、目出度し目出度し。63年には1071ccのクーパーSに進化するが、その戦闘力は大したもので、64年・65年・67年と連続モンテカルロラリーに優勝して気を吐いた。

65年モンテカルロラリー優勝のミニクーパーS:ドライバーはティモ・マキネン、ナビゲーターはポール・イースター

で、味をしめたクーパーは、更に強力なミニクーパーを企画するが、どうあがいても1071ccが限界、と諦めたところに{捨てる神あれば拾う神あり}の諺どおり、ダウントン社が気筒をずらす容積拡大手法を開発して、1275ccが誕生する。

このようにして誕生した1275クーパーSも好評で、71年の生産中止までに4万台余を売り、大いに気を吐いたのである。

世界各地で開催されたミニのワンメイクレース:日本では著名漫画家佃公彦がFISCOや船橋サーキットで活躍した

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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