メッキ名人作・ホンダ バモス

コラム・特集 車屋四六

昭和一桁生まれの我々は乗用車といえばアメリカ製だった。で、鮫洲での運転免許実地試験も1936年型シボレー・フェートンで、最初のマイカーもガタボロの38年型シボレーだった。

以後スポーツカーを除き、ジャガーMK-Ⅶやキャデラック等みな大きな車が多かったが、ある時期やむを得ず、軽自動車に乗り換えなければならぬ事態に遭遇した。

問題は道交法の改正…毎晩飲酒運転で帰宅、家の前に駐車して翌朝出勤というのが、路上駐車禁止になってしまったからだ。
WWⅡ以前の都会の建物は、御影石門柱の門扉+玄関には見越しの松というのが定番で、大邸宅の門は大きいが、中流家庭の幅は約一間だから約180センチ…で、当家では軽なら門柱の間に駐まってドアも開くので、軽自動車がマイカーになったのである。

旧我が家の門柱間に駐まる、スバルREX550

最初のスズライトは2サイクルの排気音が「うるさい」とオヤジに云われて、乗り換えたのがホンダN360・ATで、ある晩赤坂のクラブから出てきたら、酔っ払いの仕業か、窓が割られていた。

が、生憎近くのSFに部品がなく、ホンダSF関東・城北工場に…当時料金150円の首都高は池袋で終わり→川越街道一目散→途中米軍基地グランドハイツ/現光が丘団地を横目にSF城北に。

窓ガラスの交換中に坂下泰二工場長が「面白い車見ませんか」と誘われると、面白いというより変な車で、下取りの軽トラT360を捨てるのはもったいないと、屋根を切り改造中だという。

後日知ったのだが、坂下さんの前歴は、世界を舞台に活躍した、二輪と四輪競争自動車開発に腕を振るったメッキの権威だった。
そんな権威が、工場暮らしの中で退屈の虫が目を覚まし、捨てる下取り車の改造を楽しんでいたのであった。

それから暫くして、その変な車が街を走っているので驚いた。
完成したら役員が「これはいけそう」と云い、生産販売が決まったのだと云う。その車名がバモス=スペイン語でレッツゴーとだと説明された。

東京モーターショーに展示されていた横からのバモス:幌屋根で両サイドにドアがなくバーで転落を防いでいる

さて、私の軽生活は続いていたが、またもや困った問題が持ち上がった。大方の軽ユーザーが歓迎した軽規格拡大だが、私の場合は、門柱の間でドアが開かなくなったのである。

で、私のぼんくら頭はフル回転…見つけた解決策でスバルREX550に買い換えた。門柱の間に駐めて助手席を目一杯前方に、運転席を後方一杯にスライドすると、後部ドアから乗降可能…2ドアから4ドアにすることで解決したのである。

そんな耐乏生活も1980年に家を建て直したことで、発売直後のジェミニ6気筒ディーゼルに換えて、めでたく終了した。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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