諺で「三代目は家をつぶす」と云うが、コロナの三代目は、家を建て直し太い屋台骨となり、トヨタには孝行者だった。
小型市場にはびこる憎いダットサン打倒を目標に、57年登場の初代コロナは「だるま」と愛称されながらもあえなく討ち死にした。
60年、満を持して誕生した二代目は空振り…またもや負け戦というのも、登場したら仮想敵のダットサンは市場から消え、新鋭ブルーバードが待ち構えていたのだから勝ち目はなかった。
が、コロナはしぶとかった…二代目は、武骨姿のダットサンに対しキャシャな姿で挑んだのだが、相手が後に名車と云われるブルーバードでは通用しなかった。
が、コロナは二度の失敗を踏み台にして、三代目では骨太姿に生まれ変わったのである。そんな64年は東京オリンピックの年。長かった敗戦の後遺症も何処えやら、裸のグラビアやカーセックスの記事が人気の週刊紙{平凡パンチ}創刊もこの頃だった。
三代目は、悪路で酷使されたタクシー業界からの「コロナは弱い」の悪評を消すために、骨太姿でのCMを多発した。また前進する姿をアローラインと呼び、丸い前照灯と下あごを付きだしたような風貌から「ブタッパナ」の愛称も生まれた。(トップ写真)
が、豚ッ鼻は孝行息子で、トヨタ長年の「打倒ブル」の念願を果たしたのである。登場して五ヶ月目、豚は青い鳥を食って、小型車市場の王座に座ったのだが、これが俗に云う「BC戦争」での、コロナ初の勝ち星となった。
それまでタクシー業界相手だった小型車が、自家用車として売れ始めたのもこの頃。量産効果での値下げと所得向上の相乗効果だった。ちなみに、55年誕生の初代クラウン購入には大卒初任給100ヶ月分が、10年後には20数ヶ月分になったのである。
三代目の値段は64万円だが、66年には40数万円で買えるサニーやカローラが登場して、日本は真の大衆車時代、マイカー時代に突入したのである。
64年9月13日、開通直後の日本初の高速道路・名神高速を三台のコロナが走り出し、一宮と西宮間を時計の振り子のごとく往復すること276回、ほぼ二ヶ月間走り続けてゴール、10万㎞連続走行達成は「コロナは弱い」の悪評退治が目的だった。
三代目は二代目より全長45㎜、全幅60㎜拡大したが、25㎜全高が低くなり、印象的に安定感が増した。10万粁ノンストップ走行に耐えた新鋭2R型四気筒1490ccは、高回転髙出力指向で70馬力/5000回転で、140粁という高速巡航能力を備えていた。
続いて1600GTクーペ登場。その心臓9R型はDOHCで110馬力。最高速度175㎞。BC戦争とは別に、サーキットで、コロナvsスカイラインGT-Rとの戦いも始めたのである。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。