昔ディーゼルといえば「いすゞ」だった。

コラム・特集 車屋四六

WWⅡ中いすゞは、軍用トラックやディーゼルエンジン製造で貢献したが、敗戦後は乗用車市場を目指して英国ルーツグループと提携、ヒルマンの国産化で市場に参入した。
以後ヒルマン国産化で乗用車造りのイロハを学習し、ベレットを自主開発、以後、ベレル、117クーペと、着実に進化を続けた。

話は変わり、1936年ベルリン・オリンピック開催で、ギリシャからベルリンへ聖火が届くが、これが元祖聖火リレーだった。
こいつはヒトラーの深慮遠謀で、WWⅡに向けて通過国の状況調査だったと云われている。

そんなオリンピックの年、19世紀からの老舗アダムオペル社から誕生したのがカデットで、たちまち大衆車市場で人気者になった。
が、やがて敗戦…運悪くカデットの工場はソ連の占領地域内だったから、賠償として工場丸ごとモスクワに運ばれてしまった。
で、登場したのがカデットそっくりのモスコビッチだが、そのせいでオペルの戦後復興は一クラス上のオリンピアで始まった。

人気大衆車カデットがドイツで甦るのは1963年のこと。一方、70年にいすゞがGMと提携する。で、ベレットの後継として誕生したジェミニは、GM系列オペルのカデットをベースに、いすゞが開発したものだった。

ジェミニはGMの世界戦略の日本の受け持ちとして開発されたから、米国名シベット、英国ではホールデンの名で販売された。
また豪州でノックダウンされた車が、ホールデンジェミニの名で販売され、豪州カーofザイヤーに輝き、ベストセラーになった。

■いすゞ ジェミニ コストパフォーマンスに優れ使い勝手抜群

当時、日本デザインの風潮はアメリカンだから、欧州志向の豪州でジェミニが人気者になる要素はないが、高品質とコストパフォーマンス優先、使い勝手抜群で強烈ファンを生み出した結果だった。

高めの車高は乗降が楽で、ゆとりの室内空間を生み出し、大きなトランクも魅力。そんなジェミニに、元気なDOHCとディーゼルが追加されたのは、西武球場開場の79年のことだった。

{ディーゼルならいすゞ}という定評があるように、ジェミニのは小型軽量高回転を実現、当時世界最高と評判高いVWの小型車用ディーゼルより高性能と評価する専門家もいたほどだった。

案の定、ジェミニ・ディーゼルはたちまち人気者で、登場翌年の販売実績では、5万5818台の内、ディーゼル仕様が4万2308台というのだから、人気の高さも判ろうというもの。

当時トップレベルの室内騒音、ATでの加速も良く、トランクの広さに惚れ込んで、私も愛用したが、同クラスのガソリン車と比較して、毎月の燃料代が60%減で、大喜びした記憶がある。
その頃のいすゞ製は、ディーゼルには付きものの予熱もほぼ不要で、いきなりキーを捻れば瞬時に始動するほどに進化していた。

いすゞは自慢のディーゼルの経済性をアピールしたかったのだろう、全国から腕自慢の女子大生を学校単位で集めて、毎年エコラン大会を開催したりした。

第三回女子学生対抗ジェミニ・エコノミーラン大会で富士スピードウエイにゴールしたジェミニ

初代ジェミニ・ディーゼルを満喫した筆者は、調子に乗り二代目も買い込んだ。FRからFFになり一回り小柄に、1.8ℓから1.5ℓになったが、ターボで活発に走る様子は、初代にまさる傑作だった。
そして、フルモデルチェンジで三代目になったジェミニは、スタイルも性能も全く平凡で、いすゞが乗用車市場から撤退する一因になったという専門かもいた。

初代で惚れ込み二代目になったFFジェミニ1500ターボディーゼルAT/1985/我が家の前で:一回り小さくはなったがFFのメリットで心配した室内空間は気にならならずトランクも大きかった

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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