2008年、取材でパリの自動車ショーに行ったら「帰国が明日夜のJALなら昼頃収蔵庫に来ませんか」と云われ立ち寄った。
其処はパリ郊外だが工場と云うから物置小屋を想像していたのだが、立派な建物で、中にはシトロエンの一号車から最新ショーモデルまでが、なんと400台もが詰まっていた。(トップ写真:足場を組み屋根を壊しフォークリフトで下に降ろす作業中のシトロエン2CV)
その奥の一角のボロボロの車に釘付けになった…今さら珍しくもないが、1948年に登場した思い切り経済車の2CVだが、レストアもせずボロボロというのが目を引いたのだ。
フランスを占領したドイツ軍は、やがて連合軍が追い出し、ドイツ敗戦でWWⅡは終わるが、国中が戦場のフランスは、戦勝国なのに英国同様に国土復興で、庶民の生活は豊かではなかった。
そんな背景で登場したのが2CV というのが定説だったが、実は開戦前、39年10月開催のパリ・オートサロンに出品を予定していたのである。
そんな事実が判ったのは50年代…誰かが工場奥の壁と外壁の間の空間に気が付き、壁を壊すと2CVが現れた。「ドイツ野郎に見せてたまるか」と、隠したものと想像される。
その後、長いこと唯一のプロトタイプとされていたのが90年代半ばにくつがえる…新たに3台の試作車が登場したのである。
其処はノルマンディーの農家の屋根裏だが、近くに広大な荒れ地があり、そこで走行試験を繰り返していたのが2CV だったのだ。
慌てて隠した様子がうかがえるが理由は単純明快…39年9月ドイツ軍がポーランド侵攻、三日後に英仏が宣戦布告で、ドイツ軍がフランスに攻め込んできたからだった。
「苦労した開発車ナチに取られてたまるか」ということだったのだろう。300台ほどを試作したようだが、会社は「全車破壊せよ」の指令を出したが、何とか残しておきたいと思ったのだろう。
前述ショーモデルらしき1台は、一本ワイパー、一つ目玉、始動用クランク棒が特徴だが、新登場のボロ2CVには二つ目玉もあり、戦後の市販車は空冷水平対向だが、試作は水冷水平対向二気筒375cc・8馬力、ボディーは軽量化目的のアルミ製である。
見つかった3台は、直ぐに足場を組み、納屋の屋根を切り開き、フォークリフトで降ろされた。が、レストアせず、WWⅡのモニュメント的存在として保存保管するようだ。
後に社長になるブーランジェの開発指示は、価格11CVの3分の1以下の農民用小型経済車を開発せよ…開発主任ルフェーブルはWWⅠ中ヴォアザンで軍用機設計に従事の軽量化のベテラン。開発目標…車重300kg➘、時速60㎞➚、燃費100km/ℓ➚、荒れ地を高速で走り駕籠一杯の生卵が割れないこと、シルクハットで乗降容易というのがブーランジェがだした開発条件だった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。