21世紀に入った頃のダイハツは、念願のスズキからトップシェアの座を奪ったりと元気一杯だが、それ以前は何となく地味な存在だった。が、地味な印象とは裏腹に日本GPが始まった頃から、スポーツ活動には熱心な会社だった。
「積極的PR活動を」という専門家もいた。レースやラリーで進化する技術ノウハウが市販車に反映して、進歩安全に繋がることを知らせることもPRだから、積極的な姿勢が欲しかった。
前に大阪の博物館展示の五輪聖火リレー伴走のコンパーノの写真を紹介したが、そのコンパーノ誕生が1964年で、伊カロッツェリア界で人気のビニヤーレの作ということも紹介した。
もっとも彼の作品はセダンでなく、ワゴン/バンだったから、発売されたセダンの後部はダイハツのデザイン。当時のダイハツいや日本のデザインレベルから察しても見事な腕前だった云えよう。
そうして誕生したコンパーノの宣伝に、オリンピック聖火リレーに便乗というのも見事な企画である。この聖火リレーの話題は、完成したばかりの戦後日本初の旅客機YS-11の飛行だった。使用機は最終試験飛行を終えた二機を全日空にリースしたもので、量産機の納入開始は65年からである。
ギリシャから日本まで、1万8000㎞といっても大半が悪路だから、その走破は大事業だった。コンパーノ2台、ハイライン1台に6人が乗り、無事走破に成功して、我々を驚かせ感心させたものだった。
その聖火リレー走破車が展示されているダイハツ100周年記念館に、更に美しいダイハツ車、その名もスポーツが展示されていた。全長2980x全幅1580㎜だから、ベースのコンパーノより一回り大柄である…直四OHV792ccは変わらない。
スポーツの誕生は63年で、お目見えはトリノ国際自動車ショーだった。美しいデザインはコンパーノを手がけたビニヤーレだけに、人目に付く姿も当然と云えよう。
実は、スポーツはショーが終わると、何人かのコレクターの手を点々としたようだ。売却できたということは、ダイハツの注文ではなく、ショー出品用のビニヤーレの習作だったのだろう。
が、2006年、実に43年ぶりにコンパーノの故郷ダイハツに里帰りしたというのだからマニアには嬉しい話しだ。
残念ながらスポーツが日本で販売されることはなかった。が、スポーツ活動に熱心ダイハツは、65年になるとコンパーノをベスに仕立てた、スパイダー1000を発売する…こいつは正にスポーツカーだった。