【車屋四六】ダイハツ生誕100年-②

コラム・特集 車屋四六

創業目的は発動機国産化で、その産業用発動機は、明治→大正と活躍したが、昭和に入ると、他分野の事業展開に手を付けた。

さて昭和に入ると、輸入三輪貨物自動車が物流で活躍を始めるが、人気が出れば当然のように日本製が登場するが、肝腎の発動機は、国産出来ずに相変わらず輸入に頼っていた。

そんな状況を見て、根っからの発動機屋の血が騒ぎ、開発したのが空冷単気筒四ストローク498ccだった。
早速、三輪車メーカーに売り込みを計ったが、サッパリ売れない。
売れない理由は簡単…日本製というだけで付きまとう不信感「舶来でなくっちゃ」という明治以来日本人の根底に根付く{舶来至上}という信奉に基づくものだった。

ここで駄目だったと諦めるダイハツではなかった…駄目なら車を丸ごと作ろうと決心したのである。で、昭和5年/1930年にHA型を完成、4ヶ月後の昭和6年3月に改良HB型を売りだした。
ちなみに所蔵写真で、最初のHA型は{ツバサ號}(トップ写真)だが、HD型は{ダイハツ}だから、市販に備えてダイハツと命名したのだろう。

ダイハツの三輪貨物自動車は斬新そのもの。それまで三輪車といえば、基本オートバイだから、チェーン駆動の後輪部に車軸を付けて二輪にしたという、誰でも思いつく幼稚きわまりないものだった

が、ツバサ號はチェーンではなくプロペラシャフトによる後輪駆動で、しかもデフも装備という、WWⅡ後に日本で大活躍するオート三輪の基本構造を既に完成していたのである。

国産初のダイハツ三輪貨物自動は、当初不信感の目で迎えられたが、物好きユーザーが買い「こいつは素晴らしい」の口コミで売れ始め、やがて丈夫高性能が認識されて人気者になっていった。

ちなみに昭和12年の年産6122台は、市場占有率で30%を越え文字通りナンバー1。販売代理店数、国内66、海外9。この海外とは、台湾、朝鮮、満州、南洋諸島、青島辺りと思われる。

昭和9年には750cc登場というように、時代と共に高性能化しながら発展する中、思わぬ改革が押しつけられる。
日本中の運送業者が一社にまとめられて日本通運が生まれたように、20数社が熾烈なシェア争いをする三輪業界に再編が押しつけられたのだ。

商工省指導と云ったところで軍主導、否応なく四社に絞られ、外れた会社は、兵器関連事業に転向させられたのである。
その四社とは、ダイハツ、マツダ、ジャイアント/帝国製鋲、くろがね/日本内燃機である。
やがて支那事変から太平洋戦争に、戦中はガソリン統制で木炭車として活躍するが、その辺りは次号にて。(写真右:戦争中燃料がなくなり開発した木炭車の試作車1942:左2個の筒状タンクは水と棕櫚でゴミ灰を濾過するフィルターと推測する)

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