昭和20年/1945年8月15日、ピーガーッ?高平寺本堂の雑音で聴きとれないラジオの天皇陛下の玉音(ギョクオン)放送が終わると、山田実先生の一言「日本は負けました」で、私の戦争は終わった。
9月早々、学童疎開先の栃木県岩舟村から東京浜松町駅に着けば爆撃で見渡す限り焼け野原、小高いプラットフォームからは晴天の中、富士山・房総半島・三浦半島が一望に見渡せた。
そんな街を、進駐軍のジープやウエポンキャリアー、GMCトラック、将校用のシボレーやフォードなどが元気よく走っている。そのどれもが、黄緑の戦時色に塗られていた。
そのころ日本人の交通手段と云えば、二本の足と自転車、運搬はリヤカー・大八車・牛車馬車だった。が、直ぐに自転車にエンジンが付き、やがて自動二輪・スクーターに、物流はオート三輪になる。
敗戦から数年が経ち、成金が生まれ、高級官僚・大臣・社長などが戦後型の外車に乗りはじめた。日本人には禁止の外車を在日外国人の名義を買って購入という、いわば違法行為である。
やがて進駐軍兵士軍属・家族の中古車も出回るようになるが、日本製は見栄えが悪く低性能だから金持ちは見向きしなかった。
50年代になり、日本経済に陽がさしはじめ輸入が始まると、人気の中心はやはり米車で、大衆車のシボレーやフォードですら、ステイタスな高級車だったが、高い関税で庶民には高嶺の花だった。
日本の金持ち達は、ロールスや欧州の名門高級車には関心がなく、ベンツやBMWもまるで知名度なし。欧州車の大半は、経済立て直しで自動車輸出を優先奨励した英車だった。
オースチン、モーリスマイナー、ヒルマン、フォードコンサル、ハンバー、スタンダード、ローバー、ウーズレイ、トライアンフ、ボクスホール、ジャガーなどを道端で眺めるのが楽しかった。
50年代前半の欧州車は、シトロエン2CV&11CV、ルノー4CV、極少数のプジョー203、シムカ、フォードベデット、ディナパナールなどのフランス車、フィアット500&1100などがちらほら。が、敗戦国でも戦前は自動車大国のドイツ車は、ボルグワルド、VW、ゴリアート、チャンピオン、メッサーシュミットなどが少数。が、英車をしのぐ人気をはいていた二台のドイツ車があった。(写真右:エッグフォルムで大人気のフォードタウヌス)
オペルレコルト(写真トップ)とフォードタウヌスで、裕福オーナーの間で引っ張りだこ、特にレコルトはプレミアム付きで入荷次第、売り切れ御礼だった…ちなみにダン突人気のレコルトは東邦モータース、タウヌスはドッドウエルが輸入していた。
一方、数は多くないが人気のスポーツカーは、MG、トライアンフ、ジャガー、シンガー、ヒーレイなど、やはり英国勢ばかりで、50年後半にポルシェが顔を出すが人気はなかった。