1945年、日本が戦争に負けて米軍主導の占領軍、いわゆる進駐軍がやってきた。同じ敗戦国のドイツも同様だが、占領統治が一段落すると、米兵達がスポーツカーに乗りはじめた。
戦前の自動車大国、ドイツとイタリアは敗戦国だが、戦勝国でもフランスは荒廃国土の復興優先で再開の自動車は実用車優先。が、英国自動車産は違った道を歩き始めていた。英国は国土復興の資金稼ぎの奨励種目に自動車が入り、輸出を奨励したからだ。
もともと英国は一大自動車輸出国で、特にスポーツカーは得意分野だったから多くの老舗名門が復活した。MG、ヒーレイ、トライアンフ、シンガー、アストンマーチン、アラード、サンビーム、そしてジャガーなどが、再起の旗を掲げたのである。
そんなスポーツカーに目を付けたのが占領一段落の米兵達。買った仲間が増えると、駐車場や飛行場でジムカーナやレースを始め、そんな遊びの波は少し遅れて日本にもやってきた。
一方、当時米国は世界一裕福でスポーツカーの一大消費地だから、英国のスポーツカーが続々と海を渡り、50年代に入ると元気を取り戻したベンツやアルファロメオ、新参ポルシェなども加わった。
さて、ジャガーは米国市場狙いで策を練り、誕生したのがXK-120。お披露目は48年のロンドン自動車ショーで、近未来的姿とツインカムエンジン搭載で、世界の注目を集めた。
それまでのスポーツカーの姿は、四角いラジェーターに古典的フェンダーが常識だから、宇宙船に出会ったときに似た驚きだった。
またツインカムはグランプリカーか超高級車御用達メカ、フェラーリだってOHCなのに、将校クラスなら買えるツインカムは、高嶺の花が地上に舞い降りたような出来事だった。
SUキャブ二連装・直六ツインカム3.5ℓ180馬力に鞭を入れれば、ゼロ100㎞―10秒、そして最高速度120マイルに由来するネーミングが、XK-120だった。
ジャガーの米国市場攻撃は、ハリウッドの事前特別内覧会で始まった。で、最初の注文主は{風と共に去りぬ}の名優クラークゲイブル。で、勢いがつきハンフリーボガードなどハリウッドスター続々で16台…米国スポーツカーファンのアイドル的存在となった。
XK-120は、すぐに日本にもやってきた。進駐軍兵士や軍属と家族ばかりでなく、人気芸能人やヤミ成金が格好良く走る姿を、うらやましく眺めていたものである。
もちろん、白井飛行場、調布飛行場、長岡ヒルクライムなど、SCCJ/日本スポーツカーカークラブなどのスポーツイベントの常連でもあった。
XK-120が生まれたのは1948年だが、その年、日本人は悔しい思いをした…連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の「日本は四等国である」の発言だったが「ちくしょう」と思った人、「負けたんだから仕方ないか」と妙に納得した人、さまざまだった。