鈴鹿に日本初の本格的サーキット完成、本格的四輪車レースが始まる。その第一回が63年(昭38)の日本グランプリである。
結果は、水面下で周到な用意万端のトヨタ勝利。また瓢箪から駒でスポットライトを浴びたのがフェアレディーだった。
第二回は、ポルシェ904とスカイラインGTのデットヒートが観客を酔わせたが、第三回は残念ながら鈴鹿での開催が不能で、一年の空白を置いて新装なった富士スピードウェイに移る。
空白の理由は、財政赤字のJAFが、GP二回の盛況を見て利益増加の魂胆で望んだ、鈴鹿とのコース使用料で折り合いが付かなかったからと云われている。
さて問題の66年第三回GPは、プリンスR380とポルシェカレラ6の対決、勝利はR380。’67年第四回GPは、合併で日産になったR380Ⅱとカレラ6のバトルは生沢徹のカレラ6勝ちでけりが付く。
そして迎える68年は、開催前からTNTの対決と人気高騰、決勝当日は12万人もの観客が集まった。T=トヨタ、N=日産、T=滝レーシング、日本初のプライベートチームの殴り込みだった。
下馬評人気の一番は日産R381。試作では屋根付きがオープンに。シボレーV8・5460cc・450馬力を三台投入。砂子、高橋、北野が操縦、横山達にはR380Ⅱが与えられた。
一方トヨタは、自社開発の3L・V8DOHC・330馬力のトヨタ7。馬力の格差は、日産はGP必勝のグループ7マシーン、トヨタ7はグループ6マシーンで国際レース出場を目論んだ結果ということ。専門家は当然無理と見ていたが、無頓着な一般観客は、大レースを予測して興奮しきっていた。
さて、新参の滝レーシングは、ポルシェ910=カレラ10は1990cc・燃料噴射で220馬力。そして海外レースで人気の大馬力V8のローラT70という派手な陣容だった。
レース結果は、ポールポジションの高橋R381が31周で潰れリタイアの後、北野R381が圧倒的強さを見せて優勝したが、圧巻は生沢のカレラ10が北野を抜いた時。
12万の観客が一斉に総立ちになり歓声を上げる。が、実際にはカレラ10がトップになったのではなく、一周遅れが元に戻っただけのことだった。
カレラ10の結果は二位で、日産は前年の屈辱を果たした。一方トヨタ7は、我々の予想通り、何周か遅れての八位、九位。
いずれにしても、優勝とは別に、日産R381が高々と揚げたるリアウイングが、コーナリングの度に角度を変えダウンドラフトで内輪側に荷重を掛けるさまは、怪鳥が羽ばたいているように見えた。
TNTの対決は、興奮の渦の中、日産の勝利で終わったが、その前のレースでは無敵を誇ったスカイラインGTが、宿敵トヨタの1600GTに、ついに破れるという一幕もあったのだ。
そんなTNTの闘いがあった68年=昭和43年は、明治100年でイザナギ景気と呼ばれ、戦後23年、日本経済は立ち直り元気よく発展中だった。
ラジオ受信料が無料になり、府中の三億円事件で強盗金額も高騰して世間を驚かせた。乗用車生産がトラックやバスを越え、運転席安全ベルトの義務化、自動車取得税の実施もこの年だった。