ヒトラー総統の「大衆に車を」の掛け声で始まる国民車構想で、ポルシェ博士の開発開始が35年。ドイツ政府から生産開始の指示が出たのが38年。
が、工場が完成した頃にドイツがポーランドに侵攻してWWⅡが始まり、乗用車生産計画は吹っ飛び、世界一を誇る量産工場は、軍用車と兵器生産に転用されてしまった。
で、世界的ベストセラーになるフォルクスワーゲン・ビートルが世に出るのは終戦後。が、生産開始後は、急ピッチで一万台達成が47年、その後も鰻登りに急上昇していく。
その累計販売台数は、48年5万台→50年10万台→51年25万台→53年50万台→55年100万台→57年200万台→61年500万台→65年1000万台。やがて、絶対に破られないだろうと誰もが信じていたT型フォードの累計1500万台も、72年に通過したのである。
ポルシェ911シリーズが新型に切り替えられないのと同じように、ビートルにも困った事態が持ち上がる。世界中に強烈なイメージを植え付けたRRのビートルは、時代を経て新型に切り替えようにも、世界のユーザーがそれを許さなかったのである。
でもVW社は、新型切り替えに努力を続けた。まず61年、RRのままノッチバックスタイルの1500を開発して併売するが、相変もわらず人気が高いのはビートルの方だった。
新型の第二弾は65年登場の1600TL。1500の姿がどこかアンバランスで田舎くさかったのに対して、今度はプレーンバックでスマートに変身。もちろんVW伝家の宝刀である、空冷水平対向エンジン搭載のRRという基本姿勢は変えなかったが、逆にこのあたりの昔を引きずる姿勢が足を引っ張り、切り替えが出来なかったのでは無かろうか。
こりないVWは、更に68年になるとVW411を発表、72年にはK70と続出させるが、いずれも鳴かず飛ばずという結果になった。走らせてみれば、どれも素晴らしい車だったのだが。
結局、ビートルのイメージを打ち破って世代交代を果たすのは、ゴルフ登場の74年まで待たねばならなかった。ちなみにゴルフは、伝来の空冷水平対向RRから、一挙に水冷エンジン搭載のFWDへと大変身を遂げている。
VW社は、ビートルに時代遅れを感じるようになる60年代から、ゴルフ誕生の70年代まで、ビートルの市場人気に阻(はば)まれて、暗中模索試行錯誤を繰り返したのである。
さて、1600TLだが、まさか暗中模索の製品ですとも云えず、一応カタログではビートルのトップモデル扱いだったが、性格的には異なるが既にカルマンギアが存在し、イメージ面ではこちらがトップモデルという感じだった。
念のため1600TLの諸元を紹介しておこう。水冷直列四気筒OHV,1584ccで54馬力。4MTで最高巡航速度140km/h。全長4225x全幅1640x全高1475㎜。ホイールベース2400㎜。車重960kg。タイヤ600-15。サスペンションはビートル以来の、四輪トーションバースプリングである。
1600TLが登場の65年=昭和40年の日本は、日産自動車とプリンス自動車が合併。名神高速全通。時の首相は佐藤栄作、少年達はモデルカーレーシングに夢中だった。庶民憧れの三種の神器は、カー、カラーTV、クーラー、いわゆる3C時代に突入。そのTVでは、おばけのQ太郎、大川橋蔵の銭形平次、NHK大河ドラマは緒形拳の太閤記という時代だった。