何故か、日本でスクーターというとラビットの名が先行する。ラビットは、富士重工の前身、合併前の富士産業の製品。そのラビットと熾烈な戦いを演じたライバルがシルバーピジョン(写真トップ:三菱製スクーター、ふそうC-11シルバーピジョン)だった。
その戦いはシーソーゲームで、時にはシルバーピジョンのシェアが50パーセントを越えたことさえある。敗戦でツバサをもぎ取られた飛行機屋は、なりふり構わずに仕事を探し、時には鍋釜のたぐいまで手を出した。
それは富士重工ばかりでなく、三菱重工、川西飛行機、立川飛行機等々、何処も一緒。日本ばかりじゃない、同じ敗戦国のドイツのメッサーシュミットもハインケル、BMWも皆同じである。
さて話をスクーターに戻すが、たまたま出入りの業者が持っていた米国製スクーター、パウエルを参考にして、富士産業がラビットを発売したのは、46年6月だった。
一方、三菱がシルバーピジョンを完成発売したのが46年8月だから、スクーター界の両巨頭、目の付け所も企画開発時期も、ほぼ一緒だったことになる。
さて、スクーターと気軽に云うが「その定義は」と聞かれて答えられる人は滅多に居ない。座席の下に原動機・前方に足踏み台・車輪が22インチ以下の二輪自動車と云うことになる。
シルバーピジョンにも、ラビットと同じように参考モデルがあった。アメリカのサルスベリー社製モーターグライドと呼ぶスクーターである。
太平洋戦争前の日本には、スクーターはなかった。が、欧米ではかなり生産されていて、両社の参考品も、縁あって戦前日本に到来していたものである。
私が初めて見たスクーターは、アメリカ製カッシュマン。進駐軍の兵隊が、遊園地の乗り物みたいなオートバイに乗っていると思ったら「落下傘部隊が連絡用に使うスクーターというもの」と教えられた。
モーターグライドは、WWⅡ前30年間もGMに勤めた丸山康次郎と云う人が、開戦目前の40年に帰国する時に、日本に持ち帰ったものだった。
戦後、三菱がそれを知り、借り受け、丸山康二郎もスタッフに入れて完成したのがC-10型モデル。その販売時に“ふそうC-10シルバーピジョン”が正式商品名だった。
現在トラックにその名が残る“ふそう”は、自動車事業の将来を考えて、何処で作っても三菱製品と判るようにと、三菱製自動車には“ふそう”を冠するよう決めていたのである。
搭載エンジンNE10型。後に“農発”と呼ばれたエンジンの原型となる。ボア57㎜、ストローク44㎜、強制空冷4サイクル1気筒112cc、1.5hp/3500rpmで70kgの車体を最高50㎞で走らせることができた。(昔はpsでなくhp=ホースパワー)
エンジン始動は押し掛け。ハンドルのデコンプレバーを引くとエンジンのコンプレッションが抜ける。車を押して勢いが付いたらデコンプレバーを放す→フライホイールマグネトーでスパークプラグに火花が飛んでエンジン始動。もちろん、スターターモータはない。
48年5月5日端午の節句の日、改良型のC-10型が皇太子殿下(現平成天皇)に献上された。その車体のシルバー塗装は、初めて採用されたものである。
ちなみにC-10型の販売価格は、3万6000円。発売された46年=昭和21年の物価を紹介しよう。郵便手紙30銭/はがき15銭、公衆電話1円50銭、新聞一ヶ月5円、週刊誌1円、地下鉄銀座線30銭、東大授業料360円/年、映画封切館1円、煙草ゴールデンバット1円、自転車900円。というような時代にスクーターは高価な買い物、普通の家庭で簡単に買えるしろものではなかった。