前にトヨペットSAの話をした。こんなに格好いい自動車が日本でできるはずがない、という話だが、それから17年余り経って登場した車もそうだった。ルーチェを初めて見たときである。
昭和40年/1965年の第12回東京モーターショー会場での、マツダのブースである。もう65年頃になると、日本製自動車もかなりなスタイリングを身に付けてはいたが、まだまだ垢抜けた外国車とは雲泥の差があった。
ルーチェは、そんな外国車、特にデザインに優れた欧州車の中に放り込んでも見劣りする姿ではなかった。その美しさの元は何だろうと思ったが、答えは簡単だった。順調に成長を続けるマツダが、新しいフラグシップ開発を目論んだときに、スタイリングをイタリアでカロッツェリアの重鎮であるベルトーネに依頼した結果だったのである。
が、確かに契約はベルトーネだが、実際のデザイン担当は、まだベルトーネ社で働いていた若き日のジウジアーロである。ご存知のとおり、ジウジアーロは脱サラして自身のスタジオを創業して、日本の自動車業界とは親しい仲となる。
例えば、スズキ・フロンテクーペ、またいすゞの117クーペとピアッツァなどが知られるが、美しい曲面と線の使い手である。ニコンのデザインなどもやっている。 ルーチェとは、イタリア語で”光”。おそらくジウジアーロはそれを意識して絵を書いたのだろう。もっとも、完成した車にふさわしい名前を、という段階で光がイメージとして浮かんだのかもしれないが、まあどちらでも良かろう。
美しいルーチェの販売開始は翌41年の8月だった。販売価格は、70万円だったと記憶する。
その頃、日本自動車業界の傾向は、まだアメリカデザインに傾倒していたから、小型車のくせに肩肘張って、大きく見せようと背伸びをして、派手な姿が流行だった。
が、ルーチェはアメ車のようなギラギラデコレーションがなく、実にプレーンな面構成で仕上げられていた。唯一、派手なところは、フロングリルに収まった四灯型ヘッドランプのみ。直四SOHCエンジンは1490ccで76馬力。サスペンションはフロントがダブルウイッシュボーン、リアはリーフスプリング+リジッドアクスルとオーソドック構成である。
近頃の車は、大方がフロアシフト方式だが、アメ車が憧れの時代には、ルーチェのようなコラムシフト(四速)が斬新だった。インパネはスポーティーな丸型メーターで、マホガニーの木目がクラシカルな雰囲気を出している。
日本の1.5L級セダンとしてはキャビンは広いほうで、乗り心地もソフト、ワイドトレッドらしく「結構やるじゃないか」というコーナリングも楽しい、と当時レポートしている。
アクセルを踏みっぱなしで、150キロほどのスピードに達したことを覚えている。
70年頃に、ルーチェで北陸方面を旅したことがある。関越自動車など無い時代は、池袋→戸田橋を渡り、中山道で高崎→渋川、景色の良い川沿いの道を北上、緊張運転の三国峠越えで、長岡に着いたら午後9時頃だった。
翌日は新発田まで北上してから反転して南下、上信越を廻りながら妙高高原の山荘で一泊。明けて翌日は長野方面を行商して甲州街道で東京まで、三日間の旅だった。
旅の目的は、大きな町や市にある煙草組合訪問である。その道中はひどいものだった。道路の半分ほどは未舗装路。残りの舗装路もアスファルトが剥がれた凸凹道だった。
煙草組合廻りの目的は、ニコサンの委託販売契約。ニコサンとは”わかもと”で財を成した長尾欽弥が開発した医薬部外品で、友人がその販売に携わったので、私も手伝うはめになったのだが、彼の愛用がルーチェだったのだ。
ニコサンは、煙草を吸うと体内に入るニコチンを分解して、栄養素に変えてしまうというマユツバごとき商品だったが、大手製造会社が特許製造権を買いに来たのだから、本物だったのだろう。
で、本格的発売を前にして、更に効果を高めるために薬品を一つ追加した。これがいけなった。厚生省の役人が来て「無断で薬品を追加したニコサンは未承認」という理由で、一ヶ月の営業停止処分。このつまずきで資金がショート、倒産してしまった。
噂では、製造権買い取りに失敗した大手製薬会社の差し金ということだった。会社が倒産すれば製造権が手に入るかもしれない。だめでも、業界に新参製薬会社の新規参入はさせない、といった思惑があったのかもしれない。
「自分たちが手がけた薬品以外の参入を嫌うのは丸山ワクチンを見れば判るじゃないか」と誰かが云っていた。
もし、ニコサンが世に出ていたら、私の友人は、ロールスロイスで日本中の煙草組合廻りをしていたかもしれない。