昭和27年=1952年。英国やカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ、ソ連、中国などの兵隊の姿は消えたが、進駐軍から在日米軍と名を変えた米軍は、まだ日本中を我が物顔に闊歩していた。
銀座松屋は米軍PXだったし、丸の内の大阪ホテル、赤坂の山王ホテルも接収されたまま。六本木には米第八騎兵師団、龍土町に米憲兵司令部、現代々木公園は代々木、渋谷、参宮橋にまたがる広大な米軍兵士家族が住む住宅地でワシントンハイツと呼び、貧しい日本との境である高い金網の向こうは、広大な芝生に住宅が点在する別天地だった。
その金網の外の日本といえば、朝鮮戦争の特需景気により、敗戦の痛手は少し消えたが、まだ焼け跡には安普請のバラックが散在していた。
が、一握りだが裕福な人も生まれて、ナンバープレートが3で始まる第三国人登録、いわゆる”3マンダイ”と呼ぶ輸入外国車を乗り回すようになっていた。54年頃に撮った写真の52年型シボレーも、ルーペで見れば”3マンダイ”のナンバープレートが付いている。
WWII後、世界一の企業GMの造るシボレーは、世界一の大衆車で、年間生産量が100万台を越える年もあった。その頃のアメリカは世界中の富が集まったかのように裕福で、乗用車は年々立派に派手になり、戦争中生産されなかったこともあり、作れば作っただけ売れていくという状態が続いていた。
開戦による兵器生産に移行でお蔵入りしたプレス型で生産した戦後モデルも、50年前後になると戦後開発のニューモデルに変身し始めていた。写真のシボレーも戦後開発のバリバリだ。
日本では軍用以外に見かけることはなかったが、シボレーの最廉価版などはアメリカでは1000ドルという驚異的価格でカタログに載っていた。当時$1000=36万円。ちなみにようやく乗用車らしくなったダットサン110型の55年型が80万円、58年に登場するスバル360が36.5万円だった。
たまに米軍払い下げの$1000シボレーが入荷すると、ブローカー達は”カラス”と呼んでいた。その由来は単純。アメ車の象徴の輝くメッキが全て省かれ、塗料では一番安い黒色でボディー全体が塗られていたからだ。ヘッドライト、テールライト枠も黒。インテリアも殺風景で、インパネは速度、燃料、水温だけ。方向指示器もなかった。「雨の日は」と聞いてみた米兵は「雨でも窓から手信号」と答えた。
もっとも3マンダイ御用達、メッキ輝く高級シリーズになれば$2000以上が当たり前で、ラジオもヒーターも装備、白タイヤに飾られて、日本の正規ディーラーでは200万円以上だった。
写真の52年型シボレーは、ホイールベース2921㎜、全長は5メートルが少々欠ける長さ。戦前からフォードの伝統はV8で力強さをアピール、シボレーはストレートシックスの滑らかさ静かさを売り物にしていた。
当時は、まだ三速コラムシフト全盛の時代だったが、写真の車は”パワーグライド”がブランド名の二速型トルコンATで、直六エンジンは3448㏄、115馬力である。
何度も登場するので耳にタコだろうが、銀座にインテリアの名門で戦前からの老舗”睦屋”(ムツミヤ)があった。新橋方面に引っ越す前は、銀座通りのポーラの所である。(90年頃)
ある年の夏、睦屋富澤社長の軽井沢沓掛の別荘に泊まっていた。「あした友達が来るので鬼押し出しを案内してあげて」と富澤夫人に云われて出かけた時の写真である。浅間山バックのシボレーの向きから、帰り道だろうが、その辺りに自生する苺、通称浅間ベリーを摘んでいるところだ。
たくさん摘んで帰ると、富澤夫人がジャムにしたり、葡萄酒にしたりしてくれるのが楽しみだった。が、自然保護運動盛んな近頃、野生とはいえ勝手に摘んでいたら、どうなることか。逆な見方をすれば、人が自然と共存していた良き時代だったという気もする。
その日案内したのは、富澤夫人とは聖心女学院でのクラスメイトで、確か山岸さんという日興證券重役の夫人とオ嬢さん。写っている二人の男の子は、富澤家の長男で親友康男の兄弟。大きい方の信二は、かつてJALの名パーサーとして活躍、天皇皇族外遊ではチーフパーサーを務め、客室乗務員の教官も務めたが、定年退職後、平成21年に他界した。
右端の富澤孝は、慶応義塾大学アメリカンフットボールの花形選手だったが、卒業後ヤナセに入社。営業に支店経営に活躍。梁瀬次郎社長の秘書なども務め定年退職した。