今でこそ若者が集うお洒落な街は原宿、青山、六本木などだが、戦前戦後、お洒落な街といえば銀座だった。銀座は、日本の幹線道路、国道一号線を挟んだ街でもあった。
徳川家康の江戸が生まれて、それまでの京都中心が江戸中心になり、道の整備が進んで五街道の起点が日本橋と定められた。中でも重要なのが、弥次喜多道中記で知られる東海道。江戸が東京になり、明治初期の内務省告示で国道一号線と命名。橋のド真ん中に日本道路原標の丸い金属板が埋めてある。日本橋→銀座→品川→川崎→横浜→戸塚→小田原→沼津→静岡→浜松→岡崎→名古屋→四日市→大津→京都→大阪、約566キロの街道。
私や親父の時代の戦前から日本一お洒落な銀座には、市電(都電)が走っていた。品川出発の都電のプレートも”1”だった。
敗戦後暫くの銀座は、松屋がPXに、服部時計店も接収され、銀座はジープが走り進駐軍兵士が闊歩して、むかし尾張町と呼んだ四丁目交差点ではMPが鮮やかな手さばきで交通整理をしていた。
敗戦後の銀座はお洒落ではなかったが、陽気で明るいGI(米兵)とカラフルな米車で独特な雰囲気だった。当時は都電の五反田発の5番、目黒発8番に麻布一の橋から乗れば銀座に着く。戦前7銭だった運賃は、戦後1円になり、昭和25年頃には10円だった。
銀ブラの後、数寄屋橋際の朝日新聞に行く。ニュース運びのハーレーダビッドソンやインディアンが並んでいる。当時、有楽町界隈は三大新聞が揃い、川を挟んだ読売新聞(現在映画館)には陸王や英国のオートバイが、毎日新聞(現在ビッグカメラ)もノートンやBSAが並んでいた。とにかく楽しかった。
昭和31年頃、都電が13円になる頃には進駐軍も減り、銀座はお洒落な昔に戻り始めた。が、親父時代の賑やか銀座は尾張町から京橋よりのようで、私が通った戦後の銀座は、新橋方面の西銀座が発展途上だった。
日が暮れるとバーやキャバレーにネオン、一杯飲み屋には赤提灯。昭和31年社会人になり銀座呑み歩きという悪い習慣が身についた。その頃は店の前に駐車、呑み、車でハシゴが楽しかった。
銀座通りと、電通通りの間に並行した、並木通りがある。その6丁目か7丁目かは憶えてないが、チロルと呼ぶ小さな店があった。
チロルの旦那は、店の名からも想像が付くように、お洒落な山男風で優しさが目の奥から滲みで出てくるような人柄、さっぱりとした気性の奥さんと二人で店の切り盛りしていた。その旦那、通称が”ボコさん”。由来は知らないが、ボコさんが自宅の自由が丘から乗ってくる足が、メッサーシュミットだった。
ドイツ製軽自動車で正しくはメッサーシュミット・カビネンロッラー(キャビンスクーター)KR175型。1952年に登場、55年には排気量を拡大したKR200&201へと進化する。
KR175は名称通り、2サイクル175㏄エンジンを搭載。その出力は、9.7ps/500rpm。4速型変速機で、後輪1輪を駆動するという二座席の三輪軽自動車である。WWII後に輩出したヨーロッパ製軽自動車の中では一番高性能で、アウトバーンでフォルクスワーゲンと張り合える、100km/hという高速巡航能力の持ち主だった。
が、二座席ではという不満もあり、三座席に進化したのがKR200&201で、名称通り排気量が200㏄にアップしている。運転席1名、後席2名で、タンデム型のシート型式はそのまま。
ユニークなキャノピーを上に開いて乗降するのは、戦争中の戦闘機メッサーシュミットと同じだと思ったら、敗戦で飛行機が作れなくなったメッサーシュミット社の作品だと判った。
第一次世界大戦敗戦の航空発動機製造禁止で、自動車屋に転身したBMWと同じ道をたどったことになる。が、メッサーシュミットは、航空事業再開で再び飛行機屋に戻った。
飛行機屋といえば、やはりドイツ空軍に戦闘機、爆撃機など名機を供給したハインケルも軽自動車を作ったし、BMWもWWII後の一時期、軽自動車を作っていた。このBMWやハインケルの軽自動車については、いずれ詳しく報告する機会があると思う。
戦後の日本にも軽自動車が輩出したが、同じ敗戦国でも戦前に自動車文化があった、というよりは自動車発祥の地だけに、ゼロ発進の日本と違ってドイツの軽は遙かに完成度が高かった。
余談になるが、カー&レジャーのウェブサイトを読んだ人から、この間の記事は何時の掲載かと聞かれるので、今後、時々リメイク前の記事掲載日を紹介します。で、このメッサーシュミットの掲載日は、平成2年6月9日(土)でした。