人間の闘争心とは、神から与えられた本性なのだろう。何時の世にも、何でも複数揃うと、どっちが強い、早い、長い、太い、なんでも理屈を付けて、優劣を付けたがる。
1885年、この世に生まれた内燃機関も、10年ほどの時が流れて性能が上がると、たちまち競争の道具となる。誰でも良い道具を持つと、優劣が気になるのは自動車族も同じだった。
で、1894年に世界初の自動車レースをパリの新聞社が主催した。何と申し込みは102台に達したが、当日スタートラインに並んだのは21台。ガソリン自動車と蒸気自動車の戦いとなった。
レースは、パリ~ルーアン間126キロを12時間以内で走ること。で、ルーアン一番乗りは、6時間48分、平均時速18.67km/hで到着したドディオン。が、ドディオンは失格した。
優勝は、二番到着のプジョー(三番もプジョー)だった。ドディオンの失格は、蒸気機関の運転に二人が乗っていたとの理由。主人が乗る優雅なワゴンを牽引する、ボイラー付きの蒸気車に運転手と釜焚きが乗るという、トラクター型乗用車だったのだ。
このレースは、19世紀に主導権を握っていた蒸気機関と、内燃機関の世代交代を告げるレースでもあった。ドイツで生まれた内燃機関のダイムラー特許を買ったフランス人は、性能向上と量産化に成功。世紀末には、パナールルバッソール社、プジョー社、ルノー社が自動車御三家で、フランスは自動車大国だった。
次の1895年のレースは、パリ~ボルドー~パリ、往復1178キロで一気に長丁場となる。申し込み46台。出走22台。ガソリン車15台vs蒸気自動6台車vs電気自動車1台で、ガソリン機関が主役の時代になったことが見て取れる。
が、またもや訳の判らぬ勝利者の決定。平均時速24.14キロで最初にゴールしたのは、エミール・ルバッソールだったが、二番ゴールのプジョーが優勝と決まった。理由は、ルバッソール車は二座席、プジョーは四座席というもので、ルバッソールは前年の雪辱を果たし損なった。何か依怙贔屓の臭いもするが。
1894年のレースでは、愉快なエピソードも生まれた。モーリス・ルブランという画家が居て、こいつがなかなかのお節介焼き。順位そっちのけで「ガソリンエンジンなんてものは信用できない・壊れるものだ」と云って、ドでかい蒸気バスを走らせて、故障でリタイアした車のドライバーを拾って歩いたそうだ。
さて、自動車を次世代の重要な移動手段と捉えていたのは、フランスとドイツだけではなかった。ボルドーレース開催の1895年、イギリスのバーミンガムで、羊毛会社の支配人が水平対向二気筒の三輪車を開発した。その支配人とは、1906年に自動車会社を創業するオースチンである。
ヨーロッパ人から見れば田舎の国のアメリカでも、自動車の開発は進んでいた。1896年、フォードが二気筒10馬力の自動車を、オールズが一気筒6馬力車を走らせている。オールズは、その5年前既に蒸気自動車を走らせていたのだが、自動車の将来は内燃機関だと決断を下した結果だった。
さて、空を飛ぶ気球を、人々は何とか交通運搬手段にしようと努力したが、失敗の連続だった。例えば、アメリカのワイズさん、年中風が西から吹くからと、気球に郵便物を付けてインディアナから東の町に飛ばした。が、当日、気まぐれな気球は西の方に向かって飛んでいったそうだ。
1870年に起こった気球事件はお笑いである。プロシャの軍勢に包囲されたパリから、貴族や金満家が気球に乗って脱出に成功した。が、着いたところが敵軍の真っ直中で、捕虜になったという話。
とにかく気球というやつは風任せで、操縦できない難物飛行機だったのだ。が、動力機関が実用になると、一変した。推進機関を付ければ、目的地に向かって進む。で、進めば空気抵抗が生まれることに気が付くと、流線型が良いということになってラグビーボールのような飛行船に進化する。
飛行船が生まれると、気球の陰は当然薄くなるが「馬鹿にするんじゃない」と奮起したドイツ人が居た。ベルソンとスリング、1901年に1万800メートルにまで気球で上って高度記録を作り、その記録は30年間も破られなかった。
結局、気球は交通の道具にはなり得なかったが、飛行船より長生きして、遠方の偵察、着弾観測、はたまた日本の風船爆弾はアメリカに飛び爆弾投下。平和な時代には宣伝用アドバルーン、気象観測と大活躍を続けている。熱気球さえスポーツで甦った。
WWI中、大都市や陣地の周りに、やたら長い紐でバルーンを上げた。攻撃してきた敵機を引っかける戦法だ。引っかかった飛行機は気の毒だが、WWIではかなり戦果を上げたと聞いている。このカスミ網的気球を阻害気球と呼ぶが、私が子供の頃には支那事変と呼んだ日中戦争で、またWWIIになっても、空に浮いていたのが記憶に残っている。