思わせぶりに登場したコロナ二代目のRT20が、実は初代だと前回説明したが、それは初代のつもりでRT20の開発中にもかかわらず、短期間にあわてて開発したCT10型を、コロナとして発表してしまったからだった。
結果、初代となったコロナCT10型の誕生は1957年(昭32)。その頃の日本は、敗戦の痛手も薄れて、裕福な家庭ではそろそろ自家用車でも、と思い始めていた頃である。
当時トヨタは、タクシー業者需要を当て込んだ中型車市場ではトヨペットで元気が良かったが、小型車市場では、戦前からの老舗ブランド、ダットサンに勝つことが出来ないでいた。
地方のタクシー市場は小型主体、これから伸びるであろうマイカーも小型車から、という予測だけに、この小型車市場には早急に手を打つ必要があった。で、打倒ダットサンを旗印に、全力を挙げて開発に取り組んでいたのがRT20だったのである。
が、RT20の完成を待っていたのでは、ダットサンのシェアが更に伸びる。で、とにかく早急な小型車の開発が急がれCT10を完成。いうなれば急ぎ働き、でっち上げの作品だった。
あり合わせの部品、利用できる部品を掻き集めたのが、CT10型コロナだった。スタイリングはトヨペットマスターのミニチュア、エンジンは小型トラック用、サスペンションもあり合わせ、ドアもマスターのを流用と云われている。
初めは、コロコロの丸い姿から”ダルマ”の愛称が生まれたが、やがてそれは嘲笑へと変わっていった。重い車体に、トラック用993㏄、33馬力の走りは、亀の子のように鈍重だった。
でも宿敵ダットサンの四角張った姿と、丸みを帯びた姿のコロナ、対照的狙いは見事だったが、見事に的外れとなった。というのも1954年(昭34)に、ダットサンが、後に名車とうたわれるブルーバードにバトンを渡してしまったので、亀の子ダルマは仮想敵のダットサンが消えていたのである。
残念ながらダルマの寿命は尽きたが、トヨタには開発を継続中の二代目となる、RT20コロナがあり、完成に近づいていた。
でも、安閑と待っては居られない。1日でも早くブルの行き足に歯止めを掛けなければいけない、というわけで打つ手を考えた。
で、生まれたのが、ティーザーキャンペーンだったのだ。が、それもむなしく、ブルの勢いを止めることは出来なかった。ちなみに、念願のブルーバード打倒は、59年に三代目のRT30が登場するまで、待たねばならなかった。
さて、前回に紹介したように、二代目コロナは60年2月にティーザーキャンペーンを始めて、3月に姿を現し、一般ユーザーへの初公開は4月だった。
その発表会の招待状が手元にあるが、写真じゃなくてイラストが同封されていた。その招待状は、英国系乗用車のディーラーで、トヨペットクラウンも販売していた、赤坂の日英自動車から。日英の川鍋秋蔵社長は裸一貫から、日本交通を育て上げた、立志伝中の人物である。
招待状には、開催が千駄ヶ谷体育館で、越路吹雪、高島忠男、中原美沙緒、他、有名楽団出演とある。トヨタ主催ではなく、一販売店主催の発表会なのだから、新型コロナ(二代目)に対する並々ならぬ意気込みが、ひしひしと感じられる。
二代目の姿は、当時の日本のデザインレベルとしては、とても斬新だった。ワイド&ロー。日本人憧れのアメリカ車と同じように、左右に回り込んだラップアラウンド型フロントウインドー。世界でも稀な、後ろに傾斜したBピラー。とにかく斬新だった。
が、走らせてみるとお世辞にも元気ではなかった。当時OHVは立派なものだが、997㏄エンジンはいくら鞭を入れても加速せず、いらいらしたものであ。
おまけに、その頃の日本の道路は、世界に知られた悪路、そこをタクシーで使われて故障続出、コロナは弱いと悪い評判が立ってしまったのも不運だった。
その後、各部が改良されて、61年には1453㏄60馬力にパワーアップしたR型エンジンを投入して性能向上、車体補強もしたが、一度広がった噂は消しきれず、ブルーバード相手の戦いを巻き返すことが出来なかった。
これが目標通り、相手が仮想敵のままのダットサンだったら、どう勝負が付いたのか判らないが、現実はブルーバードの時代に変わっていたのが不運だった。
この頃になると、日本の自動車は量産効果で値段が下がり続けて、コロナも1500DXが72.9万円で買えるようになっていた。ちなみに当時の物価を云えば、ガソリン1リットルは約45円、握り鮨一人前180円、封切り映画館入場料が350円程だった。