【車屋四六】エアロウイリス

コラム・特集 車屋四六

ジープは、世界で最も著名な車の一台だと思う。WWⅡで世界の戦場を駆け巡って以来のことで、四輪駆動車の代名詞的存在になり、四輪駆動車の元祖と思っている人も居るが、本当は違う。
独特な個性せいか、紆余極性と遍歴を重ねながら、今日まで生き延びた生命力には感心するほかはない。

話変わって、有栖川宮から2000円の前渡し金で、内山駒吉が日本初のガソリン自動車を完成したのが明治40年。
1837cc12馬力の四ドアセダンは、点火栓と速度計以外は国産で、10台ほどが名士の手に渡った。その名{タクリー号}は、ガタクリ走るからと駄洒落的発想で生まれたのである。

そんな明治40年=1907年、米人J.N.ウイリスがオーバーランド社を買収、ウイリスオーバーランド社を創業したのが、後年、名車ジープの生みの親となる会社だった。

会社は、四気筒→六気筒→八気筒と品揃えも充実発展して、フォードT型に次ぐ生産量に達するが、運悪く37年に創業者が心臓病で倒れ、事業は右肩下がりに低下していった。

が、{捨てる神あれば拾う神あり}とは良く云ったもので、ジープの大量発注が舞い込み、WWⅡ終戦の45年までに、フォードと協同で実に45万台を生産し、生き返ったのである。

1910年代のウイリスオーバーランドの広告:Std$895~DX$1095・38馬力・WB112インチなどの文字が判読できる)

が、この受注は棚ぼたではなかった。タッカー社が政治家と役人がつるんだデトロイトの陰謀で潰されたように、悲劇の主が居た。
陸軍の試作発注に打てば響くように応えたのはバンタム社で、ジープは完成した。が、陸軍がウイリス社に発注の理由は「小さな会社では大量生産が無理」というものだが、バンタム社よりウイリス社のロビー活動が勝っていたという結果だった。

ジープは戦後も受注があり、会社は順調。で、目指したのが、乗用車市場への復帰。47年、先ず量産でコストが低いジープをベースにコンバーチブルを完成、ステーションワゴンも完成。ワゴンはライセンサーの三菱でも生産したから憶えている人も多いはず。

両車、そこそこに売れたのをバネに、いよいよと登場したがエアロウイリス($1731~$2150)で、評判もよく、初年度3万1362台を売り上げた。

写真(トップ)は54年型エアロウイリス・イーグル。ハードトップで、今でもスマートだが、全長4594㎜、全幅1829㎜車重1219kg。直四SVで3707cc、115馬力という諸元である。
日本の輸入元は東京自動車(東京麹町)で、エアロウイリス、ジープ、ドイツの軽自動車ゴリアートを扱っていた。

イーグルは米大衆車のフォードやシボレーより小柄だから、裏通りでの取り回しが楽で、乗り心地はアメ車らしくソフトライド。三速コラムシフト、前輪ウイッシュボーン、後輪半楕円リーフもアメ車の典型で、タイヤは600-15を履いていた。

この時代ウイリス社は元気一杯、53年にはカイザーフレイザー社を買収、70年ハドソン&ナッシュと合弁で生まれたAMCと合併、淘汰が進む米自動車業界を強かに生き抜いていった。

が、景気の良いのはそこまでで、状況一転。ルノー資本が入るが駄目でクライスラーの傘下に、そしてクライスラーもダイムラー傘下になるが失敗、現在は共にフィアットの傘下にある。
が、時代がどう変わろうと、ジープは健在、頑丈を絵に描いたように、強かに生き続けている。

ウイリスジープのWWⅡ中の広告