大晦日の人気TV“NHK紅白歌合戦”の威力が薄れ始めたのは70年代末だった。昭和の大歌手美空ひばりが「もう紅白は卒業」と出場辞退したのが大ニュース。
超売れっ子のピンクレディーも、忙しさを理由に出場辞退という、前代未聞の話題で歌謡界が騒然となったのが78年だった。
78年=昭和53年、久米宏&黒柳徹子司会の人気番組“ザ・ベストテン”に、山口百恵の“いい日旅立ち”が流れていたが、それに祝福されるかのように登場したのが、ホンダファン待望のスポーツカー、プレリュードだった。
二輪から四輪、そして軽自動車から登録車へ、ホンダはシビックの成功で勢いづき、76年誕生のアコードも成功すると、次ぎにスポーツカーが追加されるという噂がしきりだった。
ホンダにスポーティーイメージが徐々に固まりつつある時期でもあり、ファンはスポーツカーがないという矛盾に、じれていた。
二輪グランプリの王者、そしてF1での優勝から連想する期待感を満足させるスポーツカーは、ホンダS800が消え去って以来空席だった。
「モータースポーツは走る実験室」それで得たノウハウを市販車にフィードバックするとホンダは云っていたのに、そのフィードバックがないのだから、ファンに不満が生じるのも当然だった。
プレリュードは、全長4090㎜、全幅1635㎜、ロングノーズ・ショートデッキ。全高1290㎜というローシルエットで、躍動感のある姿にまとめられていた。
心臓は、直四OHC1750cc/85馬力。ホンダにしてはかったるい出力は、当時既に排ガス対策が実施されていたからだが、車重800kgという軽量仕上げにより、軽快感ある走りの持ち主だった。
当時私の雑誌試乗記では「ギンギンのスポーツカーではないが走って楽しい2+2型GTで気になる後席はRX-7やフェアレディーZより窮屈さを感じない・乗り心地の良さは予想外」と。
が、座高が高い典型的大和民族体形の私には、全高の低さのせいで乗降時の窮屈感、そして座ってからのヘッドルームに圧迫感を感じたとも書いている。
販売価格は、XTの116万円からXRの138万円という構成。ATは3万円高。エアコン17万円高。
エアコンはインパネ内蔵が自慢で、ATは理想の無段変速を追求したホンダマチックと呼ぶやつだった。が、変速ショック皆無は快感だったが、加速感に欠けるのが問題と感じた。
昔から“論より証拠”と云うように、5MTでのゼロ100㎞加速の11.7秒に対して、ホンダマチックの方だと15.4秒という結果に不満が生じたものである。
日本初登場の電動スライディングルーフと自慢したが、手動のスライディングルーフなら、プレリュードより8ヶ月前に登場したセリカXXが、日本初登場ということになる。
日本初が好きなプレリュードは、80年にガラスサンルーフを加えるが、当時の日本は漫才ブームの真っ直中、ツービート、B&B、セントルイス、ザぼんち、のりおよしお、伸介竜介等々が、TVラジオを賑わしていた時代だった。
一応のファンを獲得したプレリュードの初代は82年に市場から消え去るが、次ぎの作、二代目プレリュードは、トヨタ日産が束になって掛かっても倒せない空前のヒット作となるのだが、その話しは次の機会に。