日本で悪税と云われ続ける重量税が実施され、英国でロールスロイスが破綻した1971年、スズキからフロンテクーペが誕生した。
1952年、フィアットからカロッツェリア・ベルトーネに転職のジウジアーロは、1966年にはカロッツェリア・ギアに移籍、そして1968年に独立してイタルデザインを創立する。
この間に日本各社のデザインをし、独立したときにデザインしたのがフロンテクーペだった。
だが、ジウジアーロデザインのフロンテのオリジナルは、日本版ミニバンの元祖とも云うべきレイアウトで、四人乗りで背の高い軽自動車だった。(ワゴンRのルーツかも)
当時日本の軽市場は、スペシャリティーカーブームに沸いていたので、オリジナルの背を極端に低めて1200㎜に、さらに二座席のクーペに仕立て直してしまった。
ここであまり知られていない裏話を披露しよう。登場したフロンテは「本当にスズキが造ったのか」と疑うほど綺麗な姿だったが、ジウジアーロの意図からは外れてしまったことで「ジウジアーロの名は使わないほしい」との申し入れがあったと聞いている。
軽自動車で日本初の二座席クーペは人気者に。三栄書房モーターファン主催カー・オブ・ザ・イヤーの栄冠をあっさりと手にした。
余談になるが、現在の日本カー・オブ・ザ・イヤーのルーツは、10年を経て三栄書房から引き継いだものである。
フロンテクーペ受賞の理由は、美しいスタイリングだけではなく、飛びきり元気が良い性能も理由の一つ。三気筒356ccは、三連キャブレターで実に37馬力を絞り出していた。
私の試乗記がモーター毎日1971年11月号に載っている。浜松のスズキ自動車本社で試乗車を受領後、登呂→久能山→三保→清水→最後は全線開通したばかりの東名高速で帰京した。
(ちなみに東名全通は1969年で、首都交とのドッキングで都内までの全通は71年のこと。首都交料金200円)
フロンテクーペは4MTで、レッドゾーン8000回転まで使い切ればアッという間に時速100km/h。驚いたのは更に120km/hまで加速が衰えかったことだった。
それから先は緩慢だが、まだ加速を続けて、速度計の針が止まったら137km/hを指していた。当時の軽としては驚異の加速力だった。
また、三島から御殿場にかけての長い上り坂をアクセル全開で、トップギアのままで100km/hを持続しながら登りきってしまったことも、驚きだった。
ちなみに、当時の東名に、渋滞混雑という言葉はなかった。
元気印のフロンテクーペのライバルは、ホンダZ、ダイハツフェローMAX、スバルR2スーパー、ミニカスキッパーなど、各社のスペシャリティー軽カー達だった。
その頃の日本は、豊になり始めた経済とは裏腹に、自動車市場は未だ発展途上だったから、素晴らしいフロンテクーペにも「四人乗れない自動車なんて」と云うユーザーも居て、2+2が登場する。
しかし、窮屈な後席に大人は無理で、後席で喜んでいたのは子供達だけ、後は手が届く荷物置き場として便利というだけだった。
やがて軽自動車の規格拡大で、77年に550ccワイドボディーのセルボが登場して、フロンテクーペは市場から消えていった。
余談になるが、当時ジーパンは未だ市民権がなく、ヤクザな服装と見られていた。岐阜の会社で、ジーパンで勤務、昼休みに煙草を吸ったということで解雇という報道があった。
だが、女が泣き寝入りしなくなったのも、この時代で、地位保全の仮処分申請をして裁判に持ち込んだ。という報道までは記憶にあるが、無責任だが裁判の結果は不明。
また大阪の大学で教師が「時間厳守・煙草を吸うな・ジーパン履くな」と云い、ジーパンを履いた女子学生に「出ていけ」と命じた。が、学生が抗議すると「私は争いたくない」と教室を出て、退職してしまったという話もあった。
当時はまだ、女らしさ、女らしく、という言葉が生きていた時代だったのである。