かつてアメリカ人は、乗用車はデカイのが当たり前だと思っていた。が、第二次j世界大戦でヨーロッパ戦線に参戦、戦後居残った兵士達が再開された自動車生産で登場する小型車に興味を持った。特に注目したのが、小型スポーツカーで、たくさんのMG-TCが帰国時に持ち帰られ、MGブームに火が点いた。が、思い返せば、TCはブームの主役ではなく、主役はTDだった。
“論より証拠”の諺どおり、どんどん米国に輸出されたMGは、総生産量でTCが1万台、TDが2万9600台、最終モデルのTFが9600台だから、誰が見ても主役はTDだ。
先週はTDだったが、今週はTシリーではトリとなったTFを時代と共に掘り下げてみよう。前照灯をフェンダー内にビルトイン、ラジェーターグリルを後傾させて、TFがスマートに変身したのは、NHK-TV(JOAK-TV)が本放送開始の1953年(昭和28年)だった。
この本放送開始の時に正式に視聴者契約をしていたのは、たった866台にすぎなかった。もっとも大卒初任給8000円の頃、17吋25万円はサラリーマン家庭には高嶺の花だった。
僅か三桁の契約の半数はマニアの手作りだったと聞く。私もオヤジにせびってパーツ代10万円を確保して20吋を自作した。20吋とは少々中途半端だが背に腹かえられぬ理由で、21吋は2万円超えで予算オーバー、たまたま秋葉原で特売1万円のシルバニア製ブラウン管に出会ったのである。
放送は始まっても無縁な庶民はもっぱら街頭TVに群がった。新橋・渋谷・新宿・池袋など盛り場に据え付けられた21吋TV(ヤナセ輸入)放送開始直前に係が南京錠を外して観音開きの扉を開けると、ブラウン管が顔を出すという仕掛けだった。
「動くラジオだ」と叫ぶ人も居た。ラジオ屋のショーウインドー、食堂、飲み屋、TVがあるだけで人が集まった。
大晦日夜の紅白歌合戦、相撲中継、野球中継、竹越美代子の美容体操などは大盛況。そのころTV受信料一ヶ月300円、ラジオの67円と較べれば、かなりな高額である。
さてTFの誕生時はTDと同じ1250cc57馬力だったが、ジョ-・ディマジオがマリリン・モンローと結婚する54年に、1466cc63馬力へとパワーアップ、最高速度も時速142kmへとアップした。
ちなみに野球と映画のスーパースター同士の結婚は、1月結婚→10月離婚とあっけない幕切れだった。が、2月に新婚旅行で来日。帝国ホテルで頭痛のモンローを指圧で直し、一躍名を上げたのが浪越徳次郎。後に「指圧の心は母ごころ」の名句も有名。
さて、街頭TVに庶民が群がった頃のスーパースターはプロレスの力道山だったが、69年に超長寿番組がスタートする。2011年の終了まで42年間に1227回放映、平均視聴率22.2%(最高43.7%)という、何故中止なのか判らぬ高視聴率番組だった。
娯楽時代劇の水戸黄門。松下電器のナショナル劇場で、後にパナソニック・ドラマシアター。あまりの長寿で黄門様が何人も生まれた。東野英治郎→西村晃→佐野浅夫→石坂浩二→里見浩太朗。
馬力アップのTF1500の総生産量3400台。黄門様の葵御紋の印籠ではないが、天下御免のクラシックな顔つきも威力が薄れ、短命なTFは55年に選手交代、MGAになり流線型に変身する。
JAF公認谷田部トライアルというのがあった。参加した私のホンダS600を負かしたのは、後に環境庁長官になる中村正三郎(SCCJ)が駆るMG-TFだった。
TFが引退の1955年(昭和30年)ラジオ東京TV誕生。“日真氏飛び出す”は日本初のスポンサー番組。TVは、高橋圭三の私の秘密、古川ロッパの轟先生など人気番組に加え、大人気プロレス中継ごとに売り上げを伸ばす受像器は、17吋型が15万円に下がり、視聴契約も3月5万台が8月には8万台と急増する。
が、それまでのブラウン管の出荷総数は13万本。ということは5万台がモグリ受像だったということになる。
ひところNHKはアンテナ探しで衛星TV放送のモグリ退治にやっきだったが、石川五右衛門の名せりふ“浜のまさごは尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ”とは、現世にも通じる名文句だと思う。