シビックが登場したのは、連合赤軍の妙義山リンチ事件の後、過激な残党が軽井沢浅間山荘に立てこもり、警察との攻防戦で日本中がテレビに釘付けになった昭和47年=1972年。
60年代までのホンダは、行けいけどんどん。世界二輪競争を制覇した勢いを四輪市場に向けた。それは当時高嶺の花の、DOHCのスポーツカーで乗り込むという常識外れの参入だった。
次の本格的乗用車は、高回転高出力で破格の性能と大きなキャビンという、これまた常識破りの軽自動車、N360で殴り込み、アッという間に市場の王座に座る。
四輪市場進出への援護射撃も二輪同様、世界四輪競争の制覇。64年当時、日本のレベルでは無謀のF1制覇だった。が、メキシコGP優勝、イタリアGP優勝、着々とポイントを稼ぎはじめた。
このまま行けば、と誰もが希望を膨らませたやさき降ってわいたような不幸が訪れる。米国での安全性問題と排ガス規制のマスキー法案等々、矢継ぎ早の課題は、ホンダばかりか全世界メーカーが途方に暮れたものである。
「何とかなるだろうか」「潰れる会社が出るのでは」「ホンダは危ないのではないか」という専門家さえも居た。
が、本田宗一郎御大は不撓不屈の精神の持ち主。金食い虫のF1から撤退して、エンジンの新開発に取り組む。そしてスポーティーから180度思想転換して、実用本位の大衆車造りに転じた。
で、登場したのは、見るからに平凡な乗用車シビックだった。そして、翌年には世界の自動車メーカーが困惑した、マスキー法をクリア、CVCCエンジンの登場である。
CVCCは、マスキー法の第一段階をクリアする世界初、一番乗りの快挙だった。が、ここでもまた本田宗一郎のアイディアは卓越ものだった。
世界中のメーカーが、排気ガスの浄化装置開発に夢中になる中、本田宗一郎は「俺はオワイ屋にはなりたくない」と云い、綺麗な排気ガス排出という画期的技術開発に取り組み、皆が取り組む外の装置で浄化する方式をオワイ屋に例えたのだ。
オワイ屋と云っても通じない世の中になった。水洗便所が無かった昔、といってもWWⅡ以後かなり長い間、オワイ屋は居た。
馬(牛)車やリヤカーに肥え樽(こえだる)を積み、各家庭の汲み取り便所から、長い柄の柄杓(ひしゃく)で汚物を汲み取る商売を、オワイ屋と呼ぶ。
汲んだオワイ(汚穢)の大部分は、畑の脇の地に埋めた大きな甕で発酵させてから、肥料として畑に撒いたのである。
シビックは全長3045x全幅1505㎜。N360と同じコンセプトで、きわめて少ないオーバーハングで広い居室の2BOX型で、ワイドトレッドという部分がN360とは違っていた。
値段も安くスタンダードで41万円。エンジンは直四SOHC1169cc60ps/9.5kg-m。CVCC型は1488ccで63ps/10.2kg-m。排気浄化で低下する出力を排気量アップで補っている。
ホンダは高価な触媒や燃焼装置、電子機器などに頼らず、新構造のエンジン開発で、難しいとされる排気ガス処理を可能にし、世界一番乗りを果たしたのである。
それが機能本意の2BOX車に搭載されると注目を浴びて、マイナー的存在だった四輪市場で存在感を増し、それを足場として世界のホンダに成長していくのである。
そうした意味では、ホンダ得意の高性能はなく、姿も平凡なシビックだが、ホンダに対する功績は偉大だった。