“ハエハエ・カカカ・キンチョール”郷ひろみと柄本明の楽しいCM。TVドラマで日本中を楽しませてくれた直木賞受賞の向田邦子が台湾旅行中飛行機事故で亡くなったのが1981年。
“なめ猫”と呼ぶ変な猫が妙に人気の年だった。
そんな81年に登場した、いすゞピアッツァは、70年代を代表するスペシャリティーカーで、いすゞ117クーペの血を引く後継モデルだった。
その両車の際立つ美しさを生み出したのは、イタリアカロッツェリア界の新進気鋭ジウジアーロだった。
このピアッツァは、79年のジュネーブショーで登場。ジウジアーロのブースで、“ロッソ ディ フィオーリ”の名で注目を浴びた話題のモデルである。
それをいすゞジェミニのフロアパンに合わせて拡大、ドッキングで、一丁上がりということで誕生した車である。
基本ウエッジシェイプだが、角を丸めた独特なシルエットが斬新で、スピード感にあふれていた。また近未来的インテリアにも感心。とくにメータークラスターの一際目立つサテライトスイッチは、見るだけで楽しくなるものだった。
ピアッツァは、女性に好評だったことから、デートカーとして高い人気を得た結果、ナンパの小道具としての人気も上昇する。
ピアッツァは“良いものだけを世界から”をキャッチフレーズのヤナセ仕様が話題となったが、やはり値段でも格差がつけられて、いすゞの価格帯、183~155.5万円なのに対して、ヤナセ仕様“ピアッツァ・ネロ”のゴールドは258.5万円、さすがヤナセという値付けだった。
ピアッツァの標準的心臓はSOHCだが、高出力バージョンはDOHCで、直四・1949ccから135馬力を引き出し、小気味の良い加速を楽しむことができた。
誕生したての頃、ピアッツァの人気は高かった。81年6月に売り出し、その年の内に9418台を売り上げ、翌年は1万台の大台に乗るが、人気はそれまでだった。
83年になると5004台、84年3976台、85年5849台、誕生時の人気は何処えやら、右肩下がりに人気は落ちていった。
そこで、いすゞが打った手が、西独イルムシャー社でチューニングした“イルムシャー”の投入だった。
独特なエアロパーツに身を固め、イルムシャー様ホイールカバー、その走りはイルムシャーの名に恥じぬスパルタンなものだった。
前年ピアッツァに追加された、SOHCターボ180馬力とイルムシャーチューニングのサスペンションのコンビが絶妙で、胸がわくわくする走りを提供してくれた。
イルムシャーバージョン登場は85年だが、想い出すのは“世紀(聖輝)の結婚”と話題になった松田聖子と神田正輝の結婚で、テレビ朝日独占中継で日本中が注目した。
それは6月24日だったが、一方で1月の報道会見を想いだす人も居た。それは「生まれ変わったら一緒になろうね」と涙ながらに語る、郷ひろみの会見だった。
右肩下がりにブレーキがかからぬピアッツァに、いすゞは更にテコ入れを加えた。88年に英国の名門ロータス社チューンの“ハンドリングbyロータス”を投入する。
こいつはスパルタンな走りのイルムシャーに対して、乗り心地も挙動もジェントルという逸品で、クルマ通からは絶賛されたが、落ち目のピアッツァを甦がえさせることはできなかった。