日本のモータースポーツ熱の源流をたどれば、鈴鹿サーキット開催の第1回日本グランプリに行きつくはずだ。が、開催の前に各メーカーは「アマチュアの祭典だからメーカー関与せず」という紳士協定を結んだ。で、会社が出場車に手を加えることはしないはずだったが、協定であって規則ではないと何社かが水面下で準備を進めた。
トヨタ、スズキ、いすゞなどが準備万端ととのえ、それぞれ完勝、優勝、好成績を挙げ、販促の宣伝材量にした。一方、傍観を決めていた日産にはヒョウタンから駒が出た。
日本ダットサンクラブ会員の田原源一郎がフェアレディで出場宣言すると、米国日産片山豊社長からスポーツキットが届き、日産は仕方なく仕上げた。片山と田原は、NDC東京とSCCJでの会員同士で旧知の仲、先輩後輩だったのだ。で田原が優勝すると、日産はその宣伝効果に驚いた。で、第2回は各社ワークス体勢で臨んだのである。
中でも際立ったのがプリンス自動車。第1回で参加全社が協定遵守だったら、多分プリンスは楽勝したろう。が、紳士協定を守った結果、技術では日本トップの自負が惨敗に繋がった。で、必勝を期して生まれたのが、後に名車の誉れ高いスカイラインGTだった。
第1回でジャラ勝ちのトヨタは、第2回では勝ち目なしと悟ったようで、急きょ新鋭ポルシェ904GTを空輸して、プリンスに優勝させない作戦に出たというのが、もっぱらの下馬評だった。
が、プリンスを優勝させぬ目論見は裏目に出た。優勝904の式場壮吉と生沢徹が親友で「追いついたら1周前を走らせてくれ」と言ったのが現実になり、トヨタの目論は外れ「ポルシェを抜いた」との評判で、GP後の市場でプリンスGTに予約が殺到する。
ここでプリンス2000GTの開発を振り返ってみよう。プリンスの源流は、敗戦まで東洋一の規模を誇る中島飛行機の流れだから、世界最高水準の技術者がおり、特に発動機では世界的権威の中川良一がプリンスGT開発の中心にいた。中川さんは、ゼロ戦や隼の栄14気筒1000馬力の改良。疾風や紫電改の誉18気筒2000馬力開発の中島技術陣のエースだった。
話は飛ぶが、1970年頃にアメリカからフェアレディが左旋回でエンジンが止まるという報告が来た。開発主査のベーパーロックという主張に対し、中川さんは「気化器の燃料吸込口が左右対称でないのが原因では」として問題解決した。後に「元飛行機屋の経験と知恵だよ」話してくれた。
敗戦でツバサを失った中川さんには、戦後いくつかの誘いがあった。通産省肝煎りのジェットエンジン開発会社、日本ロケットの父といわれる糸川英夫からの誘いなど。しかし日本、いや世界の将来を見据えて自動車産業を選んだと言っていた。
臥薪嘗胆(がしんたんしょう)、第2回GPに必勝を期した中川さんは準備万端整えて、グロリアで1、3位、スカイラインでは1位から8位まで独占という圧倒的強さを誇示した。そしてGT=グランドツーリングクラスでの必勝を期して、新鋭スカイライン1.5ℓ4気筒とグロリア2ℓ6気筒をドッキングという、奇想天外な手法で開発を命じたのである。
(車屋 四六)
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。