自動車レースが盛んな欧州の1930年初頭は、ムッソリーニを後ろ盾のアルファロメオとフランスのブガッティが断トツに強かった。が、WWⅠ敗戦での巨額賠償金と経済不況にあえぐドイツを背景に、1933(昭和8)年ナチス党を率いるヒトラーの政権奪取で様相が一変した。
ヒトラーはドイツ再建のため、再軍備、大衆車の開発、アウトバーン建設、そして国威高揚の柱の一つで自動車レースを選んだ。先ず、メルセデス・ベンツとアウトウニオンに、レースに勝てと厳命したが、1934年度のGPでは、2社共に2勝を上げたに過ぎなかった。
ポルシェ開発のアウトウニオンのミドシップ型Pワーゲンは、16気筒・295馬力で最高速度時速295㎞の大記録を樹立するが、操安性が不安定だった。36年には改善が進み、天才と呼ばれたベルント・ローゼマイヤーの操縦で、メルセデス・ベンツのルドルフ・カラチオラと互角に戦えるようになり勝ち星あげはじめた…もっとも、この癖のあるクルマを乗りこなせたのは、ローゼマイヤーだけとも言われている。
一方のメルセデス・ベンツは直8・345馬力でGPレースに登場するが、35年後半には、世界初採用リミテッドスリップデフのメルセデス・ベンツを名手カラチオラが操縦して勝ち始める。
Pワーゲンも36年には、アルファロメオもマセラティも寄せ付けぬ強さを発揮するようになり、ニュルブルクリンクで史上初の10分を切りローゼマイヤー優勝。その勢いに乗って6連勝し、彼はGPチャンピオンの座につくことになる。
37年に入ると、GPレースはこの2社独走となり、毎回ドイツ勢同志の死闘が続けられ、最終期にはピットにハーケンクロイッツ=鍵十字の旗、クルマにも鍵十字、ドライバーの腕にも鍵十字の腕章で、ヒトラーの目論見に応えたのである。
で、37年圧倒的強さを誇る両社の勝ち星は、メルセデス・ベンツ7勝、アウトウニオン5勝で、2位、3位にもドイツ勢という盛況だった。
この2社の切磋琢磨で、エンジン出力は600馬力にも達し、最高速度も時速400㎞を超えるようになり、連戦連勝は38年も続いた。この2社は、レースばかりでなく速度記録でも張り合い、38年には特注流線型ボディーにV12・5.7ℓ・736馬力搭載のメルセデス・ベンツのアウトバーンでの記録は、時速436.9㎞に達した(この記録は公道世界記録として現在も破られていない)。
さて、GPでシーソーゲームを演じていたアウトウニオンも黙ってはいない。同じく流線型ボディーでローゼマイヤーが挑戦しながら、記録は破ったり、破られたり。そして「風が強くなったから…」の注意を振り切ってスタートしたローゼマイヤーは帰らぬ人となった。途中計測で時速470㎞をマークしていたという。開発者のポルシェは「現場にいれば止めていた。あの車は横風に弱いから」と語っていたそうだ。
(車屋 四六)
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。