1971年登場のLC10W、商品名スズキ・フロンテクーペは、日本初の軽自動車業界の本格的2座席GTだった。
初対面、その垢ぬけたプロポーションも道理、デザイナーはイタリアでカロッツェリアを創業したばかりのジョルジオ・ジウジアーロだった。ご承知だろうが、ジウジアーロは日本と大変縁のあるデザイナーだ。
カロッツェリア・ベルトーネに入社後、マツダ・ルーチェやファミリア ロータリークーペを。その後、カロッツェリア・ギアに移籍、いすゞ117クーペ、そしてフローリアンをデザインした人物だ。
この時代日本では、デザインを外人に依頼することが多かった。自動車後進国だった日本も、この頃には走る道具としての技術的では国際レベルに達したが、いかんせんデザインは遅れていた。
庶民の懐もゆとりが出始め、自動車は走ればいい、持てれば幸せという時代が過ぎ、遊びの道具、趣味の対象にまで成長していた。
そんな時代を反映したかのように、元来貧しいからの軽にも贅沢な要望が出始め、スペシャリティーカーが登城したのものこの時代。ホンダ・Z、ダイハツ・フェローMAXハードトップなど。
ちなみに外人デザイナーの手になる日本初の作品は、61年のプリンス・スカイライン・スポーツでミケロッティ作。彼は日野・ルノーの後継コンテッサで、各国コンクールで受賞したことでも有名。
外人2番手はドイツ系アメリカ人で、BMW・507デザインのアルブレヒト・フォン・ゲルツ。初代シルビアを、また日産がヤマハに持ち込んだ日産・2000GTもゲルツの作(後年スポンサーが日産からトヨタに移り世に出たトヨタ・2000GT)。
日産・ブルーバード311とセドリックのピニンファリナは、片山豊推薦のイタリアカロッツェリア界の巨匠。ダイハツ・コンパ-ノはビニヤーレ。あまりにモデルチェンジしないので”シーランカンス”の異名を持つ三菱・デボネア初代は元GMデザイナーのハンス・ブレツナーというように、いっとき外人デザイナーが大活躍した。
こうして自動車後進国の日本は、追い付け追い越せの精神で懸命努力の結果、まず技術面で追いつき、次の課題のデザイン面でも、目標を達成したのである。
そんな日本のデザイン傾向が、60年代から70年代に変わる頃大きく変化する。丸いカーブで纏められていた傾向が、直線と平面構成に変わったのである。
そんな転換期に登場のフロンテクーペ、開発コンセプトは明快で、専門家も驚く先進的割り切りをベースに成立していた。それまでの軽自動車は“4人が乗れて荷物も積める”を金科玉条のように守ってきた(きんかぎょくじょう=融通が利かない)。
その金科玉条をあっさりと捨てたのがフロンテクーペ。で、3m×1.3m、小さな軽規格の投影面積の中に2座席と割り切った結果は、流麗な低いシルエットと、ゆったりキャビンを実現してみせた。
2気筒365㏄、スズキ得意の2ストローク型37馬力/6500回転に鞭を入れると、最高速度120キロ、0-400mを19秒で走りきったのである。当時の軽では驚くべき性能だった。
さらに、フロントフェンダーとボンネットを斬新なFRPの採用で軽量化、全高1200㎜という低さ、そして理想的前後荷重配分と相まって、軽快な操安性を生み出していた。
もちろんスペシャリティーカーという特殊ジャンルの車だから、画期的高性能も大量販売に結び付くものではなかったが、一部のマニアを魅了して、77年に新規格の拡大軽になったセルボが登場するまで、軽のGTファンを楽しませてくれたのである。
試乗記を書くために、浜松のスズキ本社で受け取った同車で東京への帰途、長い御殿場への上り坂を、トップギアのまま時速120キロで登りつづけるスタミナに感心したものである(ということは40キロの速度違反だが、もう時効成立と思い紹介する)。