【車屋四六の good days and good cars】ダットサン物語-8
日産の看板だったダットサンの名は、1959年=昭和34年に、日本市場から消えたが、米国では生き残っていた…米国の司令官は片山豊だった。 その米国行きは、栄転ではなく左遷だった…戦前は鮎川義助の後継者と思われていたが、戦後 […]
続きを読む日産の看板だったダットサンの名は、1959年=昭和34年に、日本市場から消えたが、米国では生き残っていた…米国の司令官は片山豊だった。 その米国行きは、栄転ではなく左遷だった…戦前は鮎川義助の後継者と思われていたが、戦後 […]
続きを読むダットソン號の損=ソンが、太陽=サンになり、縁起の良い名のダットサン號が誕生する…その登場は、1932年=昭和7年だが、この年、日本橋・白木屋百貨店の火災で女子店員の死が話題となった。 白木屋 […]
続きを読むダットサン物語のついでに、ダットソンのカタログを紹介しておこう。 明治このかた、徐々に文語体が変化して、現在の口語体になる前の、戦前の口語体だから、今の人達には文語体と思えるだろうし、漢字が多いので、判りづらいだろうから […]
続きを読む前回までで、ダットサン誕生のようすが、おわかり頂けたと思う。 また、第一話で、オースチンと日産、両社の社史の食い違いについて話した…また、官民ともに、日本には、隠したがる風習があるとも書いた。 例えば、3.11東日本大震 […]
続きを読む前回、自動車工業と自動車製造という、ややこしい関係を話したが、どちらも自動車生産会社である。 で、ダット號の製造権を得た自動車製造は、販売会社を組織したのが、1932年=昭和7年だった。 新会社の社長・吉崎良造は、東京瓦 […]
続きを読む関東大震災のとばっちりで、ジリ貧になった快進社は、軍用自動車保護法という国家の方針に載ってしまえと、四分の一トン貨物自動車なども開発するが、ジリ貧は解決しなかった。 とどのつまり、大阪の実用自動車に吸収されるが、新会社で […]
続きを読む関東大震災で壊滅的被害を受けた帝都のインフラ復旧のために、復旧に時間が掛かる市電の代わりにと・バスが表舞台に登場し、特権階級の持ち物だった乗用車も、裕福だが庶民も乗るようになった。 そこに目をつけた、フォードとGMが日本 […]
続きを読む日本の自動車史を語るとき、ダットサン抜きでは語れない…ダットサンの名付け親は日産自動車と思っている人が多いが、日産ではない。 まずダットサンを語るには、日産が製造権を買い取ったいすゞからだが、いすゞと日産の社史では、食い […]
続きを読む写真の1963年型のジャガーは、1996年開催の日光クラシックカー・フェスティバルの参加車。 全長4590×全幅1700×全高1460㎜・重量1460㎏・3.8㍑DOHCはSUキャブ二連装で2 […]
続きを読む世界には、メルセデス・ベンツ、レクサス、ジャガー、BMWなどが人気の、高級車市場というのがある。 さらに、その上には、ロールスロイス、ベントレーなどが君臨する、超高級車市場もある…トヨタ・センチュリーも、これに属すると思 […]
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