日産の看板だったダットサンの名は、1959年=昭和34年に、日本市場から消えたが、米国では生き残っていた…米国の司令官は片山豊だった。
その米国行きは、栄転ではなく左遷だった…戦前は鮎川義助の後継者と思われていたが、戦後の経営陣からは敬遠されていたようで、というよりは目障りな存在だったようだ。
片山の企画による豪州ラリーでクラス優勝…目論見通り、ダットサンの知名度を世界的に知らしめた。

で、本社からの指示で、早めに帰国させたドライバーが、日本中をパレードで盛り上げたのに、残務整理を終えて帰国した片山に、座る椅子がなかったという。
「オレの机に労働組合のヤツが座っていた」と笑っていた…なのに、日産は何故か片山に引導を渡せず、米国出向を命じた。
トヨタも米国法人を休眠させた、難物の米国市場だから、米国に赴任すれば、自身で身を引くだろうと、経営陣は考えたようだった。
が、そんなことでヘコタレル片山ではなかった…コツコツと知恵と努力で、ダットサンを売り込み始めた。
ダットサンの代理店の開拓では、いずれヒョウタンから駒が出るかも、と引き取ったダットサンを、草むらで錆びさせていた新車販売店ではなく、中古車販売店を目標にと、戦術を転換した。
売る気のある代理店が徐々に増えて、アフターサービスにも力を入れて、ダットサンも売れ始めた。
スポーツカーフアンもフェアレディーを買うようになり、車が売れれば、本社も片山の提案に、耳を貸さなければならなくなった。
その結果生まれたのがブルーバード510とフェアレディー240Zだった…片山の要求は「ハイウエイで米車の流れに乗れる馬力と強力なブレーキ・ベンツのような操安性を安価で」だった。
フェアレディーの方は「雨風寒暖を快適に若者でも買える値段でジャガーEタイプのような車」をだった。
また「ブルーバードやフェアレディーなど女々しい名では駄目」と、日産車全てをダットサンという名で統一して販売した。
で、操安性抜群・耐久性抜群の510は念願のサファリラリーで優勝。
ダットサン240Zは、米国では、スポーツカーなのに乗用車みに売れて、片山が米国在任中に30万台、以後も含めると130万台も売れて、という世界のスポーツカー史上、空前のヒット作となった。

おかげでトバッチリを受けたのが、欧州の老舗名門のスポーツカーメーカーで、廃業したり縮小したり…一方、米国スポーツカー市場は、途中参戦のマツダRX-7と共に、ポルシェとの一騎打ち状態となった。
片山豊の名は全米に知れ渡り・Father of Z Car=Zの父・Katayama=Mr.Kと呼ばれるようになる…一方、われわれ片山豊の親派は“オトッツァン”と呼んでいた。
退職後の1998年、米国自動車殿堂に顕彰された…本田宗一郎、豊田英二などに次いでの殿堂入りだったが、日産本社は、そっぽを向いた。
日産上層部と親しいジャーナリスト・金子昭三が「何故祝わないのか」と役員に問うと「片山は給料を払っている人間・功績ある歴代役員がいるから片山は辞退すべきだった」が答えだったと言っていた。

米国市場開拓で偉大な功績を残した片山だが、帰国しても役員の席はなく、小さな子会社の、代表権のない役職にしか就けなかった。
このようにして、米国での功績も、片山が育てたダットサンの名も消えてしまったが、ダットサン大好きな片山豊が育てた、ダットサンの歴史は消えるものではない。
103才で運転免許を更新し、105才でこの世を去った片山豊は「ブランド名とは確立するのに数億、数十億の金と長い歴史が必要・それを捨てる経営者はバカだよ」とは、晩年に聞いた一言だった。