ダットソン號の損=ソンが、太陽=サンになり、縁起の良い名のダットサン號が誕生する…その登場は、1932年=昭和7年だが、この年、日本橋・白木屋百貨店の火災で女子店員の死が話題となった。
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白木屋百貨店→東急百貨店→現在はコレド日本橋だが…デパートは八割が女子店員で、当時は和服…それが大騒動の始まりだった。
火事とケンカは江戸の華というように、火事くらいでは江戸っ子は驚かないが、屋上からの脱出で、女店員死亡となると、話は別だ。
五階オモチャ売り場から出火で、六階、七階の客と店員が屋上に逃げたが、はしご車は五階まで…で、屋上からは、ロープで脱出ということになったようだ。
が、お定まり、火事場の乱気流の中で、決死で掴んだロープなのに、14人の女店員が死亡した。
当時、着物の下は男はフンドシ、女は腰巻きで中はスッポンポン…明治生まれの、母も同じだった。
今どきのギャルンなら「へっちゃらよ」だろうが、当時の女達には無理だった…見上げる野次馬の目が気になり、着物の裾を押さえたのが、運のつきだった。
片手では、自身の体重を支えきれずに落下して、女店員が死んだ…で、白木屋は、しばらくして、新しい規則を告示した。
{和服でもズロースを履くべし}と…それがきっかけになり、大和撫子=ヤマトナデシコ達の、着物でもパンツをはくという、習慣の始まりとなったのだ。
ダットソン號から、ダットサン號になり、売れ行き好調の日産自動車に、昭和10年=1935年、慶応義塾大学を卒業した、片山豊が入社した。
片山は、鮎川義介日産社長の遠縁で、いずれ社長に、との鮎川の目論見があったようだ。
このあたり、片山一家いちの子分と、自他共に認める、佐藤健司の話…日産コンツェルン総帥の鮎川が、日産自動車創設前に、藤田男爵の未亡人・片山の姉に金策に行ったそうだ。
「主人から鮎川には出来るだけのことをと言われております」と、40万円を渡したそうだ…金1g=3円。昭和10年入社の片山の月給70円・東京府知事400円・総理大臣900円の頃である。
昭和10年日産入社の片山の人生は、ダットサンと共にあり、といっても過言ではない。ダットサンを、これほど愛した人物はいなかろう。
入社→宣伝部に配されて、有名女優をキャラクターに。人気の松竹歌劇団の舞台にダットサンを走らせ、ダットサンガールを組織など、ダットサンを小型車の代名詞にまでに育て上げた。
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「儲からなくていい会社にはスポーツカーが必要」が持論で、昭和27年に売り出した、ダットサンスポーツDC3は、片山が会社未承認で開発したものだった。
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現在日産所有のダットサン1号車は、戦後、宣伝課長時代の片山が自腹で購入レストアしたものと聞いている。
戦前にダットサンを代名詞的存在に育て上げ、戦後は豪州ラリー優勝で、ダットサンの知名度を、世界的に知らしめたのも片山豊だった。
余談になるが、日本自動車ショーを発案企画…自身創設したSCCJは会長に。JAFスポーツ委員長、渡米がなければJAF会長にという話もあった。
そんな、日産大好き、ダットサン大好きの片山豊の米国行きが、実は左遷だったという話は、次回に。