ロードペーサーと呼ぶ車

コラム・特集 車屋四六

昔ガソリンには鉛が入っていた。不整燃焼/ノッキング防止のためだが、公害排除目的で鉛混入禁止になった。法的無鉛化実施は1975年、蒸気機関車SLが曳く列車が日本から消えた年である。

そのころ見るからに堂々姿のロードペーサーと呼ぶ大型四ドアセダンがあり、給油所に行くと「お客さん外車は有鉛ですよ」と注意された。当時は有鉛と無鉛が併売されていた。

「無鉛でいいんだよ」実は国産車で、マツダのフラグシップカーだった。圧縮比が9.5と高いにもかかわらず無鉛仕様だったのは、ウイスキーでも走れると云われたロータリーエンジン/REを搭載していたからである。

創業時コルク製造の東洋工業(後のマツダ)は、その後削岩機、そしてWWⅡ以前三輪貨物車で成功、三輪業界では戦後もダイハツとタメを張る業界リーダー格だったが四輪市場への夢があった。

マツダの三輪貨物自動車=オート三輪発売は1931年。

で、手始めに軽自動車R360クーペで四輪業界に参入した頃、ドイツからRE実用化のニュースが飛び込んできた。先輩達がシノギを削る四輪市場で勝つ武器を探していたマツダは跳びついた。

100社をこえる企業が世界から集まる狭き門を突破、マツダは契約に成功して、世界の名だたる企業が量産化できずに困惑する中、量産化成功一番乗りの勝ちどきを上げたのがマツダだった。

それからのRE攻勢と快進撃は後世の語り草になるほど。
やがてファミリアからルーチェに至るまでの5ナンバー車全シリーズのRE軍団が完成すると、軽自動車のRE開発を発表する。
が、完成の噂が流れた頃、官民一体の思わぬ圧力が掛かったようで、ガソリンエンジン換装で発売されたのがシャンテだった。

それはそれとして、残るは3ナンバーの市場だが、マツダにはフルサイズ車がない。そこで英国流左側通行のオーストラリアGMからエンジンの無い右ハンドル車を買い付けることに。で、白羽の矢を立てたのが、GMホールデンHJプレミア。それにREでは最強の13B型135馬力を搭載して発売したのが75年3月のこと。

フラッグシップとしてのロードペーサーは、全長4850×全幅1885㎜で見るからに堂々の外車風大型車で最高速度165㎞。外車が日本でのサービスに困らなければ鬼に金棒、しかも6座378万円、5座381万円と安いのだから売れるだろうと予測した。

筆者試乗記掲載のモーター毎日1975年6月号の写真:APとあるのは排気ガス対策型RE搭載の表示。

が、3と5のRE軍団が完成したのを見計らったように、マツダは世界的悲劇に巻き込まれた。73年に始まる石油ショックで、世界的に盛り上がった省エネムードの中「REは大食い」とレッテルを貼られしまったことで、売上げが一気に落ち込んだのである。

もちろんRE全体が大打撃を受けたので、威風堂々・加速良好・乗り心地良好の日本製大型乗用車ロードペーサーは消えてしまった。
共に消えたのが沖縄万博、これも不況のあおりで客が来なかった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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