何故か日本では人気が育たぬルノー

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2018年ゴーン会長逮捕、日産との主導権争いと世間を騒がしたルノーは、欧州では人気の高いブランドだが、何故か日本では迷走を続け、一握りのフリークを除いて人気が出ない。

昭和30年代に一度だけ輝いた時代があった。日野自動車が、ノックダウンに始まり100%国産化に成功、低性能の日本車を尻目に軽快に走り、また神風タクシーの語源になるなど、人気知名度共に抜群という成長ぶりを示したのである。

が、日野はトヨタとの提携で乗用車市場から撤退して、ルノーの知名度は急降下した。その後インポーターが転々とする迷走時代が続いた後、1994年に檜舞台に再登場した…輸入車業界のドン・ヤナセがフランスモーターを設立し、輸入権を取り上げられたVWに果敢に挑んだからだった。

ヤナセの信用、上等な顧客層に支えられて目論見通り好調なスタートをしたが、幸か不幸か日産がルノーの子分になり、ルノージャポンが設立され、当然のようにヤナセはルノーから手を引いた。

そもそもルノーは、フランスでも屈指の老舗で創業は1898年/明治31年。シャフトで駆動力を後輪に伝達するという形式の元祖というように、先進技術を持つ会社だった。

自動車が生まれて競争が始まり、見物人が死んで公道レースが禁止になった最初のサーキットレース・フランスGPで優勝したのもルノーだった。以後、ルノーは大衆車から高級車まで、幅広く活躍、順調に業績を伸ばし、WWⅠも無事に乗り切った。

が、WWⅡではナチの占領下、会社生き残りを掛けてナチに協力をしたのが運の尽きで、終戦後社長が逮捕されて獄中で死に、これでルノーも終わりかと思ったら、運良くドゴール大統領による国有化で、しぶとく生き残った。

さて戦後の再出発は、47年登場の4CV。RRの4CVは機構がVWとそっくりだから、フランスの獄中でポルシェが開発を手助けという伝説があるが、これは間違いのよう。ただ、戦前、戦中を通し、技術屋同士の交流はあったようで、ポルシェのアイディアは当然知っていただろうと思われる。
ということで、WWⅡ以後のルノーは、高級車路線から降りて、大衆車に専念するようになる。

さてスペース効率優先のRRから、ルノー4で62年にFWDに転換した以降はFWDで進化を続けている。そんな中で少し大型のルノー16が登場し、日本初お目見えは65年の輸入車ショー{東京オートショー}のルノー16GLだった。

1968年の東京オートショーに出品展示されたルノー16GL

私がモーターマガジン誌の依頼で試乗記を書いた頃の輸入元は、タバカレラ・インターナショナルだった。借りてきた16は、直四・1470cc・65馬力・車重980kg・最高速度145㎞。当時の試乗記を見ると試乗車の値段は143万円だった。

ブ厚いシートはロールスロイス並、送風ファンは停車中も送風するので雨の日も快適と自慢し、当時としては斬新な前輪ディスクブレーキ、密封ラジェーター、ノングリスアップも自慢だった。

FFのメリットをフルに生かした室内は広々としていた。
乗り心地はソフトで、まことに具合の良い車だったが、65馬力では不満のフランス人が居たようで、68年にゴーディーニ仕様の16TS・1565ccツーバレルキャブ85馬力が登場して、最高速度が165㎞に向上した。このエンジンは性能の良さが認められて、アルピーヌA110やロータスヨーロッパにも使われた。

日本には65年暮れには早くもタバカレラが輸入を開始して、販売は日英自動車などが担当したが、16は日本の安全公害基準に対応出来なくなり、TSを最後に73年頃に消えていった。

1966年/昭和41年訪問のパリ・シャンゼリゼ通りで未だ珍しいので撮影したルノー16GL:当時フランス車のヘッドライトはオレンジ色/遠くに凱旋門が写っている。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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