【車屋四六】マツダは三輪貨物自動車界のドンだった

コラム・特集 車屋四六

貨物自動車には大中小があり、大型には多軸車もあるが、中小型は大部分が四輪…その小型四輪をさかのぼるとオート三輪時代になり、日本中を三輪車が走り回っていた。
オート三輪とは、WWⅡ以後の呼び方で、戦前は軍国主義の敵性用語として英語禁止だから、三輪貨物自動車が正しい呼称だった。

三輪貨物自動車は、単気筒エンジンのうるさい騒音から、戦前からバタバタと呼んだり、バタコと呼んだりしていた。
安くて便利な貨物車ということで活躍したから、多くのメーカーが生まれたが、戦争が近づくと二社に集約された。

二社に集約されたのはオカミの指導で、いや命令といった方が良かろう…軍隊の都合便利のためで、多くの運送業者が集約されて日本通運=日通が生まれたのと同じである。
その集約された二社とは、マツダとダイハツである。

マツダが、三輪車開発を決断したのは1930年/昭和5年だった。
当時の社名はマツダではなく、東洋工業で削岩機などを造っていたが、松田重次郎社長は、牛馬車や大八車で運ぶ荷物は、いずれ機械化されると考えた時、日本国情から考えて三輪貨物自動車が向いていると決断を下したのである。

早速、開発に着手したが、そのスタッフの中に、戦後51年に社長に就任する松田恒治が居た。開発にあたりマツダは、高いレベル目標を設定した。

当時の流れは高級不要廉価販売優先で、メカが単純な2ストローク単気筒が主流だが、古くなるとパワーが低下し白煙を排気、加えて騒音が高くても、安いのだから当たり前と思っていた。

が、マツダはあえて値段が上がる4ストロークエンジンを選び、振動騒音を嫌い、コストアップする二気筒と決定した。
早々に完成したエンジンは、ファンで強制空冷する500ccV型二気筒で、発売後は予想通り好評だった。

昭和8年に造られたマツダ三輪貨物自動車

やがて日本は敗戦。空襲で焼け野原の都会を含めて、復興のために必要は流通手段の確立。その運搬道具が必要、ということでマツダは45年12月生産再開…8月の終戦を考えると早い復帰だった。

日米欧どこも同じで、戦後最初の製品は戦前型での再出発。669cc13.5馬力/500kg積み三輪車だった。
そしてダイハツとのトップシェア争いも再開した。

そうこうしているうちに、戦後の復興も一段落したころ登場した1100型は、積載量1トンと1.25トンと1.5トンの三種類。
相変わらずのマツダの上等指向で、1139ccエンジンはOHVになり、水冷直列四気筒46馬力で、最高速度87㎞と高性能だった。

オートクール方式と称するエンジンは、サーモスタットで夏冬快調、不具合解消と自慢たらだらだったが、いまなら当たり前の技術でも当時は威張れたのである。

さて、60年に法改正で、小型車排気量上限が1.5ℓから2ℓに引き上げられのが、三輪車にも適応されたので、マツダは自慢の直列四気筒OHVに1985cc85馬力/4MTを加える。
こいつはパワー増大で、最高速度も100㎞の大台に乗り、三輪自動車業界最速と自慢する。

写真(トップ)の長尺型は、WB2830㎜を3270㎜に伸ばして、全長5120㎜、全幅1840㎜。当時の宣伝文句で{低床長尺の荷台は13.5尺(4m)小径後輪タイヤのせいで床がフラットなばかりでなく低い}と強調していた。もちろん三方開きも売っていた。

マツダの三輪消防車:空冷V型二気筒エンジンと中央にシフトレバー、クラッチペダル、青いボタンはホーン用、放水ノズルなどが見える