代名詞というものがある。日本の車関連では、太平洋戦争を挟んで、小型車の代名詞は「ダットサン」だった。昭和20年代はスクーターが走って来れば「ラビット」だった。世界中に軽飛行機メーカーが沢山あるのに、日本では「セスナ墜落」と報道される。さぞかし迷惑だろう。
さて50年代の日本では、スポーツカーが来ると「MGが来た」だった。
と云っても、国中が敗戦貧乏にあえいでいる頃だから、MGを乗り回しているのは戦勝国の連中で、たまたま日本人の場合は、ヤミ成金か芸能人だった。三船敏郎や三国連太郎の走る姿を見たことがある。
戦後の日本にMGを持ち込み、走り出したのは、日本の占領にやってきた進駐軍の兵隊達、軍属達だった。そのうちに日本人が乗る姿も見かけるようになり、たまたま同級生が乗っているのを借りてみたが、乗り心地が予想外に悪く、ボディーもガタガタだったのを憶えている。が、屋根が無く風を受けて走るのが爽快だった。

日本スポーツカークラブという団体がある。略してSCCJ。SCCJには、50年発足の進駐軍主導のものと、55年再発足の日本人主導の二つがある。
戦後暫くは、西洋から入ってくるものは、全てが、見るもの聞くもの目新しかった。もちろん当時の日本人にとって自動車レースも目新しいもので、少数の日本人SCCJ会員がイベントに参加して習い憶え、モータースポーツを今日に伝承したといっても過言では無かろう。
日本の軍隊や役人は融通がきかないが、米軍は物わかりが良いようで、白井や茂原、調布など占領した旧日本軍飛行場で、日曜日にはパイロンを立てたりしながらレースやジムカーナを開催した。
当時「撃ちてし止まん」などがスローガンだった我々の競争は、誰が速いか、一番かを競う事しか頭にない。が、先進国の連中は、速さだけではなく気分も楽しんでいるようで、バンパーを外し、ヘッドランプを裏返し、ウインドスクリーンを前倒したりして、走る前から楽しんでいるようだった。
しかし、出来上がった勇ましい姿とは裏腹に、MGはそんなに速い車ではなかった。本気で走れば、大排気量・大馬力のシボレーやフォードの方が速かった。
写真(トップ)のMGはTDシリーズだが、132km/hがカタログでの最高速度だった。
MGの走る姿は格好良かったが、いざ乗ってみれば、運転席は窮屈、尻を突き上げる乗り心地は最低、ダルなハンドリング、おまけにヒーター無しときては、冬にオープンで走ろうものなら、ヤセ我慢大会みたいなものだった。
話は変わるが、スポーツカーといえば、ジャガーやフェラーリのような重量級があり、軽量級ライトウエイトスポーツカーがある。当時で云えば、MGやシンガー、トライアンフ、ポルシェなどを指すが、本場はイギリスとされていた。
MGの前身、モーリスガレージが創立されたのは34年(大正13年)というから、パリでオリンピックが開催された年だ。そして、社名をMGカー会社と改名したのが38年である。
日本で代名詞となる、MG-Tシリーズの誕生は28年である。もっとも最初はTタイプとは呼ばずに、Mタイプと呼んでいた。いずれにしても、Tシリーズの姿は既に完成していた。
28年登場にしてはMタイプの847cc27馬力は斬新で、既にOHCを採用していた。太平洋戦争前に、数台が日本に持ち込まれたと聞いている。戦争中にスポーツカーなどに乗っていれば、世間の顰蹙を買う。下手をすればオカミから罰を受ける。そのせいか、後部に荷台を付けた改造型が走っていた、と先輩から聞いたことがある。たぶんオーナーは「こいつは貨物自動車である」というのが逃げ口上だったのだろう。
36年になると正式にTを名乗り、MG-TAが誕生する。排気量が増えたがOHVになり、その1292ccエンジンは52馬力を発生した。
TAは評判も良く3003台が売れたとある。きれいにレストアされたTAは、愛知県長久手のトヨタ博物館で見ることが出来る。
終戦翌年の46年、MGはTCに進化する。TAとTCの間にはTBが有るが、この三台を外観で見分けることは、余程の通でも難しい。TCのエンジンは57馬力になって、最高速度が126km/hになり、評判も良く1万台余りが売れた。
MGの評判を上げたTCの後を継いだTDが登場したのは49年だった。このTDが、MGの絶頂期を迎える記念すべき作品となった。メカも進化して、四輪リーフスプリングから、前輪がウイッシュボーンに進化する。
TCからTDは、その頃、ドイツをはじめヨーロッパに駐在していたアメリカ兵御用達となり、帰国時に持ち帰り、世界中の人気で、2万9644台も売れてしまった。
TDは、更にスタイリッシュになって55年にTFに進化するが、人気はついて来ず、売れたのは僅かに6200台だった。そこで、排気量アップ、1466ccを追加したのだが、売れたのは3400台でしかなかった。
一世を風靡したTシリーズの魅力は、ジリ貧状態に落ちた。
その原因は、最大の得意先、アメリカでMGのクラシックな姿に、顧客が魅力を感じなくなっていたのに気づくのが遅かったのである。結論は、ジャガーで火が点いた、流線型でなければという時代になっていたのだ。
で、独特なサイクルフェンダーを捨てて、ラジェーターグリルに少し面影を残したMGAへと、55年にバトンタッチする。が、MGが人気を甦らせるとはなかった。
とにかく、MGというスポーツカーは、TCからTDの時代の人気で、日本ではスポーツカーの代名詞だったのである。
